141.62


「わっかんねー!もーどこだってばよ!」

片手に地図をにぎりしめ、何度目かわからない雄たけびをあげる。

つらく長い受験勉強の末に奇跡的に合格した大学は、長い歴史と、このあたりではいちばんのレベルの高さと、広大な敷地を誇っていた。
歩いても歩いても大学のなかだ。
教育学部棟を出発してそろそろ1時間。
途中迷ってずいぶん遠回りをしたとはいえ、いい加減に着いてもいいはずだ。

「スンマセン、工学部1号館ってどれっすか?」

青いツナギを着た掃除のオジサンに尋ねたら、おもいがけずイケメンなその人は口にくわえた爪楊枝を揺らしながら、アレだよ、と指をさしてくれる。
灰色の、見るからにボロい建物だ。
教育学部棟だってけっこう古いけれど、これはその比じゃない。
いったいいつの時代のものかわからないほど巨大なエアコンの室外機が窓辺に並んでいるし、窓枠はなんだか黒く錆付いている。

「おいおいホントにココ…?」

工学部一號、と旧字体で書かれたプレートを確認して、おそるおそる足を踏みいれる。
昼間だというのに、中はひどく薄暗かった。
細長い廊下の先を照らす蛍光灯が、ジジジと点滅している。
なんかいかにも『出そう』なかんじだ。
両側に並んだ部屋の扉にも窓にも分厚いカーテンが引かれている。
誰も人がいそうにない。
スニーカーを履いた自分の足がリノリウムの床に擦れてキュキュとなる音だけが、やけに響く。

木製の手すりがついた階段をのぼって、廊下のいちばん奥をさらに左にまがったところに、目的地はあった。
灰色のドアに『工学部中央図書室』の文字。
古めかしい銀のドアノブは、ガチリと閉ざされている。

「マジかよ…」

人気の感じられないドアの前で、それでも一応ノブを引っ張ってみる。
ドアはガチャガチャとなるだけで、開くわけもない。

「なにか用ー?」
「うわあああ!」

とつぜん背後から声をかけられて、叫び声をあげる。
振りかえって目にはいった姿が真っ白で、ぎょっとして後ろに飛びすさってドアに背中をしたたかにぶつける。

「痛ってー!」
「…にぎやかな子だねーえ」

呆れたような声は、低くてどこか間延びしていた。
まだドキドキしている胸を押さえながら、顔をあげてみる。
真っ白な幽霊のような姿は、よくみれば白衣を着て白いマスクをした長身の男だった。
髪の色まで白っぽい銀色だ。
片手に持った紙コップから、かすかに湯気が立ち上っている。

「えっと、アンタ、ここのヒト?」
「そうよー。キミは工学部の子じゃなさそうねーえ」
「あ、オレは教育1年うずまきナルト。エロ…じゃなくて自来也教授に言われて、本を借りに来たんだってばよ」

握りしめていた、大学構内地図をプリントアウトした紙を差し出す。
裏側には本と著者の名前が達筆で書いてある。

「『Aircraft control and simulation』…?なんで自来也センセイこんな資料がいるんだろ。新作小説の下調べかな?」
「小説?」
「自来也センセイ小説も書いてるデショ?結構人気作家じゃない…知らないの?」
「知らねえってばよ!なんか一時限目がアイツの授業でさー、寝不足でちょっとウトウトしてたら首根っこつかんで起こされてよ、罰だとか何とか言いながら研究室のなかの本を運ぶの手伝わされたんだって!しっかもなんかエロい本ばっかでよ!!んでついでだからこの本も取ってこいって地図渡されてさー、人使い荒すぎだよ、アイツ!」
「なにキミ自来也センセイの授業で居眠りしたの?そりゃ大物だねー」

くすくす笑いながら白衣のポケットから鍵束を出して、男が図書室のドアを開ける。

中は普通の事務室だった。
入り口そばにちいさな机とPCの端末が一台。
奥にはふたつの事務机が向き合って並んでいる。
片方には古びたデスクトップ。
もう片方には書類と10冊ほどの本とシールやスタンプが積まれている。

壁際の台車にも本が数十冊積んではあるけれど、『図書室』と言われて思い浮かべるような本棚は、ない。

「本あんまりないじゃん」
「なに言ってんの。ここは中央図書館みたいな開架式じゃないのよ。それぞれの分野の本がそれぞれの書庫に並べてあるの。ここはその管理室みたいなもんよ。その本、分類番号はわかる?」
「ぶんるい番号?なにそれ?」
「…キミ図書館使ったことない?」
「シツレイな!受験勉強のとき図書館通ったぜ!静かだし机あるしエアコンついてるし、いいとこだよな!」

威張っていったら、白衣の男ははああ、とため息をつく。

「あのね…図書館は受験生の勉強部屋じゃないのヨ。情報を検索するところデショ。大学での勉強は高校までとは違って、教えられることをただ詰め込んでいけばいいってもんじゃなーいの。必要な情報を集めて分析して、自分なりの理論を組み立てていくのがだいじなんだからネ」

まあとりあえずそこで調べなさい、と指差されたPCのまえにしぶしぶ座る。

「べつにこれオレが欲しい本じゃねーもん。だいたい自分なりの理論って、あんなエロ教授の理論なんてぜったい超エロエロだぜ!」

ぶつくさ呟くオレの姿にくすくす笑いながら、男がマスクをはずして手にしていた紙コップの中身に、ふう、と息を吹きかける。

「…!」
「なにヨ?」
「ズリィよ!そんな怪しいカッコしといてマスクはずしたら美形だなんてズルすぎる!」
「……キミ、バカでしょ?そのセリフのどこから俺突っ込めばいいの?」

マスクの下からあらわれたすっきりと通った鼻筋のしたのちょっと薄めの唇が、あきれた、という形をつくる。
それさえもがまるで精巧に作られた人形のようだ。
長い銀の睫毛が、透けるように白い頬に影を落とす。
見つめつづけるオレの視線から逃れるように、男が紙コップを口に運ぶ。
すこしそらした細いノドが、ゴクリとうごく。
珈琲の香りがただよう。

そして男が首からさげていたIDカードに気づく。

「…はたけカカシ、せんせい」
「ああ、センセイじゃなーいよ、司書だもん」

オレの視線が顔から外れたのに明らかにほっとした声で、カカシ先生がいう。

「センセイでいいじゃん、白衣なんだし」
「白衣関係ないデショ」
「なんで医学部でもないのに着てるの?」
「だって工学部図書室寒いんだもん」

珈琲を飲みきったカカシ先生が、さっさとマスクを装着する。
もったいない。

「ほらほらさっさと本調べなさい、自来也センセイが待ってるんでしょ?ここに書名入れて検索ボタン押して…」

オレの斜め後ろに立った先生が右腕を伸ばし、細くすんなりとした指でPCのモニタをつつく。
その指を、つかみたいと、前触れもなく思った。
つかんで、引き寄せて、その爪に歯を立てたいという衝動が、荒波のように押し寄せる。

なんだろう、これは、この感情は。

「ああこれだね、Aircraft control and simulation。航空の書庫にあるよ、分類番号メモしておいてネ、538.2」
「分類番号ってなんだってばよ?」

なにか喋っていないと本当に目の前のこの手を握りしめてしまいそうだ。

「分類番号はねえ、本の住所みたいなものかな。世の中のありとあらゆるものを十進分類法に基づいて分類して、その番号順に本を並べてあるんだよ。そうすれば書棚に同じ分野の本が並んでいくから、欲しい情報がさがしやすいでしょ?」

いまはコンピューターがあるから検索はもっとラクになったけれどねえ、と言いながらモニタの上をコツコツとたたく先生の、その、きれいな、指先。

「ほんとになんでも分類されてるの?」
「そうよー。文学関係なら900番台とかスポーツ関係なら700番台とか」
「コーヒー、とかも?」
「うーん飲物としてなら596.7の家政学かな…農業としてなら619.89とか」

この部屋のコーヒーメーカー調子悪いからわざわざ自販機まで買いに行ってきたのよネーと、手にした空の紙コップをもてあそびながら先生が答える。
マスクのせいでくぐもった声が、なぜだか甘く耳のふちをくすぐる。

「………じゃあ、恋、は?」

顔をあげたカカシ先生が、ちょっと目を細めてオレをみて、そして、笑った。

「そうねえ、141.62、かなー、心理学としての愛情。社会科学としてなら384.7。そういうの訊いちゃうのって、なんか青春だねー」

まあどっちにしても俺には管轄外だけどね、ここにあるのは400番台とか500番台の工学系の本ばっかりだし。
そんな暢気なことを言いながら、白衣のポケットに両手を突っ込んでカカシ先生が小首をかしげる。

古ぼけた事務室の壁にもたれたその姿を眺めながら、141.62という数字を、オレはただ頭の中に刻みつけた。

fin. (20090228)


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