5min. Then Time's Up


頭に、肩に、ぱたぱたと落ちてくるシャワーの水滴を浴びながら、シャンプーに手を伸ばす。
持ち上げたボトルはおもったよりも軽く、押してみたらブベッというへんな音を立てて中身が出た。

無香料と記されたシャンプーのパッケージはひどくそっけないデザインだけれど、不要な匂いを嫌う忍の多い木の葉では、これがたぶんいちばんよく売れている。
アカデミーのシャワールームに備え付けられているのも、これだった。
内勤の多いイルカ先生のうちの風呂場にさえも、これがあった。
里にいればどこでだって見かける、珍しくもないただのシャンプーだ。
それなのに。

手のひらに乳白色の液体がひろがったとたんに、カカシ先生の髪の感触がよみがえった。
好き勝手な方向に跳ねながら、身動きするたびにオレの指を、頬を、鼻先を、やわらかく擽った銀の髪。
香りなんてなにもするはずがないのに、触れるたびに胸の底が、甘い、甘いと訴えかけた。
甘い、甘い、そしてひんやり冷たい。

濡れて額に張り付く自分の髪をかきあげて、乳白色のシャンプーを泡立てる。
冷たかった液体はすぐ手のひらの体温となじんで、髪に香りを残すこともないまま、シャワーに流されて排水溝へ消えた。。


***


バスルームを出てキッチンに入ったとたんに、トシュッと軽い音を立てながら、トースターからこんがりと焼けたパンが飛び出した。
キッチンのイスに座ったカカシ先生が、本から目もあげないままパンを皿に載せて、オレのほうへ押しやる。

「バター、そこ。コーヒーは?」
「飲む」

ひょいと後ろに手を伸ばした先生が、コーヒーメーカーからサーバーを取って、マグに注ぐ。

「ミルクないよ。牛乳でもよければ冷蔵庫から出して」
「ん」

すぐ脇のちいさな冷蔵庫をかがんで開けて、未開封のままの牛乳を取り出す。
賞味期限は、1週間以上も先だ。
開けぐちを押し開き、ドポドポと中身をコーヒーに注ぐ。
冷蔵庫に牛乳をしまって、イスに腰掛ける。
先生はずっと本に視線を落としたままだ。
ときおり細い指先がマグの取っ手をつかむ。
真っ黒なコーヒーを飲み下す白い喉が、コクリと上下する。

「先生」
「んー」
「シャンプー、もう無かった」
「そう」
「オレあとで買ってくるよ」
「ヨロシク」
「買って、戻ってきても、いいの?」
「ナニソレ?」
「先生、後悔してる?」

チラリと一瞬だけ目をあげた先生が、再び本に視線を戻した。

「……そんな、たいそうなことじゃないでしょ。オマエ酔っ払ってたんだし、女の子相手なわけじゃないんだから。スッキリしたんなら、それでいいんじゃない」

本のページをめくる音、風で窓ガラスが震える音。
それ以外の音が消えてしまったかのような世界で、本を読み続ける先生の姿を、身じろぎもせずにただ眺める。

「先生」
「んー」
「昨日言いそびれたけれど、オレ、先生のことが好きだ」
「そう」
「好きです」
「ん」
「好き」
「ハイハイ。おまえの『好き』は、軽いね」

先生がまたページをめくる。
カタカタと窓ガラスが鳴っている。
今日は、風が、強い。

「軽くねえよ。オレ、これ言うのに8年もかかった」
「なにいってんのヨ」
「子どものころの『好き』はちょっと違うもんだったかもしれないけれど、でもそれでもやっぱり言えなかったってばよ。言ったら先生ぜったいにもう、オレの頭とか撫でてくれなさそうだったもん」
「え?」
「好かれてる相手には、距離置くだろ、先生って」
「ナニソレ…」
「だからずっと言えなかったんだけど」

ふいに風が止む。
耳鳴りがするほどの沈黙が落ちる。

「先生、好き」
「…」
「このままずっと、先生のこと好きでいても、いい?」
「いいわけないでしょ。男同士なんてのは所詮一時しのぎなんだから、やるだけやってスッキリしたなら、ちゃんとマトモな女の子の相手を見つけなさい」

カタカタとまたガラスが震えはじめる。
窓の外のカエデの枝が、残りすくない葉を散らす。

「……やっぱり、そういうんだ」
「あたりまえでしょ」

先生がまたコーヒーに手を伸ばす。
半分ほどに減った黒い液体はもうすっかり冷めてしまっているのか、湯気も立っていない。
オレの薄茶色のコーヒーは、冷たい牛乳をそそいでもなお、舌をしびれさせるほど熱いままだというのに。

「……ねえ先生、オレ、バカだからさ、いっつも先生に叱られてただろ。無謀だとか、考えなしだとか」

先生はもう顔を上げないことに決めているらしい。
伏せた長いまつげが、下瞼に淡く影を落としている。

「でも、8年のあいだにわかったことがあるんだ。先生は…」

本の文字を追う先生の瞳の動きにしたがって、銀のまつげがかすかに揺れ、しずかに瞬く。

「先生はさ、いつだって、オレがとことん信念持ってやることになら、どんな文句言っても最後にはぜったい味方してくれるよな」

ページをめくる手が、止まる。

「覚悟しておいて、先生。オレはもう、なにがなんでも先生を愛し続けるって決めてるから」
「なにを、バカなこと…」

眉を寄せた先生が、あきれ返ったような表情で、それでもようやく本から目をあげてちゃんとオレを見返してくれたことに満足して、皿の上のトーストをひっつかみ、ガツガツと口に詰め込む。
そしてコーヒーを一気飲み。
熱い液体が、喉を焼いて、胃袋に落ちる。
グイッと口元を袖口でぬぐい、ガタンッと音をたててイスから立ち上がる。

「じゃあ、シャンプー買ってくるな!」
「…は?」
「5分で戻ってくるってばよ!」

昨日放り出してあったままの上着を拾い上げて、バサリと羽織る。
先生の横をすり抜けざま、身をかがめてキスしようとしたら、避けられた。
むなしく空振りになった唇と鼻の先を、先生の髪がかすめる。
なんの香りもしないというのに、やっぱり甘い、甘い、甘い。

シャンプーも香りを残せない。
身体をつなげることすらあっさりと流してしまおうとするこの人に、いったいどうすればオレの気持ちを残すことができるんだろう。
アタマの悪いオレには、上手い方法なんてなにひとつ思いつけはしないけれど。

「5分以内に戻ってくるから、先生、オレが戻ってくるまでに覚悟決めといてくれよな!」
「っはああ?あのねえ、おまえはヒトの話を…」
「大丈夫、ちゃんと無香料のシャンプー買ってくるってばよ!」

玄関に脱ぎ散らかしたままだった靴を突っかけて、ドアのノブをつかむ。

「だからその甘い香りは、オレだけのものにさせて!」

かおり?と訝しげに呟く先生の声に、ニッと笑いかけてからドアを開ける。
ビュウウと吹き寄せた風に一瞬身をすくめてから、冷たく澄んだ青空のもとへとまっしぐらに駆け出した。

fin. (2010winter)


<テキストへもどる>