勇敢なあたらしい世界
[5]本を地下書庫まで運びこむのは、けっこうすぐに終わった。
でもそれを書棚に並べるのには、もう気が遠くなるほど時間がかかった。
薄暗い地下書庫のなかは埃っぽくてしんと静まり返っているだけなのに、なぜだかカカシ先生の気配がいっぱいだった。
書棚のいちばん上に手を伸ばせば、白衣の袖口から覗いた先生の細い手首がおもいだされる。
リノリウムの床に視線を落とせば、しゃがみこんで本を配架する先生のうなじの白さが仄かに浮かぶ。
だけど先生はいつまでたっても帰ってこなかった。
誰も来ないのをいいことに、ABCのうたを大声で歌いながら、分類番号の数字と著者名のアルファベットで頭のなかをいっぱいにしてひたすら本を並べていった。
順番に悩んで手をとめるたびに、「ハイ失格」という先生の、呆れているようなおもしろがっているような、やわらかな声が鼓膜によみがえる。
でも先生は、戻ってこない。
だんだんと喉が嗄れて、歌うのをやめた。
本を持ち上げる二の腕が痛いほどに張ってきた。
まいあがる埃に、鼻がずっとムズムズしている。
しんと静まり返った書庫で、ぎゅっと口を引き結んで黙々と配架する。
果てしなくおもわれた作業の末にようやく最後の一冊を書棚におさめても、先生のペッタペッタというサンダルの足音は、聞こえてこないままだった。
***
工学部中央図書室に置かれたコーヒーサーバーの中身はすっかり煮詰まっていて、あわてて電源をオフにしたけれど、部屋のなかはすでに香ばしすぎるコーヒーの匂いで充満しきっていた。
あーあーと溜息をつきながら、カカシ先生の席に座る。
椅子にはなんだか小学校の職員室でみかけたような、ふちがレースの妙にかわいらしい小花柄の座布団が敷いてあった。
でもそれ以外のものはむしろ無機質で殺風景だ。
なんの変哲もない壁掛け時計。
銀色のペンたて。
書店のロゴが入ったシンプルな卓上カレンダー。
電話の横にミスプリントの紙を半分に切ってクリップで留めたメモ用紙の束。
ふう、と息を吐きながら、頬杖をつく。
もしかして先生は、オレがいることなんて忘れちゃってるんじゃんねえの?
会議なんてとっくに終わってて、先生そのまま家に帰っちゃったとか。
だって先生が出ていってから、もう4時間ちかくもたっている。
オレがいたことなんてキレイサッパリおもいだしもしなかったんじゃねえ?
それともオレがいたことを、忘れたフリしてる、とか?
先生は、オレがいるから戻ってこないんだろうか。
いま時間ないから、と告げたカカシ先生の、固い声をおもいだす。
それからドアを出ていくときの、すこし背を丸めた後姿の残像。
眉根を寄せて、重苦しい息を吐きだす。
相手は可愛い大学生の女の子じゃないんだぜ、とゲンマは言った。
生半可な気持ちで手にはいるわけがない、とも。
だけど嫌がられるのを怖がらないで突き進むなんて、そんなの無理だ。
カカシ先生の、きっと無意識のしぐさひとつひとつにまで、感情が振りまわされる。
つかんだ手首の細さ、ドクリと中指に触れた脈、前髪のあいだから覗く伏せた睫毛、そのすべてに鼓動が高まる。
そして腕を振りほどかれたときの、胸の痛み。
なんなんだろう、この気持ちは。
心臓を鷲づかみにして、持っていかれてしまったような気がする。
カカシ先生には持っていった気なんてこれっぽっちもないのだろうけれど。
「うううううーっ」
呻きながら、机に突っ伏す。
電話機の横に消しゴムがひとつ転がっている。
どこにでもあるようなありふれた白い消しゴムの底に、へのへのもへじが描いてある。
学生の忘れ物だろうか。
もしかしてカカシ先生が描いたんだったりして。
まさかな。
組んだ腕のうえにあごを乗せて、ただぼんやりと部屋のなかを眺める。
カチカチと時計の秒針が時を刻む音だけが、響く。
***
トゥットゥッ、トゥットゥッと電話が鳴っている。
いつのまにか居眠りしていたらしい。
ぼうっとする頭をあげて、ふわあと欠伸する。
どれくらい寝ていたのだろう。
人気のない殺風景な部屋は、あいかわらず人気がなく殺風景なままだ。
トゥットゥッ、トゥットゥッ。
電話が鳴り続けている。
鳴りやまない呼び出し音を10回数えて、それからそっと受話器を持ちあげた。
「はい」
「あ、うずまきくん?よかった電話出てくれてー」
すこし間延びした声が鼓膜をくすぐる。
カカシ先生だ。
「ごめんネ、会議が長引いちゃって。ようやくいま10分だけ休憩時間もらったんだけど、まだ終わりそうにないのヨ。そこ俺の席だよネ?机のいちばん上の引き出しあけてみてくれる?」
いつもどおりの先生の声が、まだ寝ぼけたオレの脳味噌に、ゆっくりと甘くしみわたる。
「いちばん上の引き出し…マスクがいっぱい入ってる」
「あれ?じゃあ、その隣」
言われるままに開けた引き出しには、白い封筒が入っていた。
「それ、今日のバイト代。俺まだしばらく戻れそうにないから、それ持ってもう帰っていいヨ。戸締りとかは用務員さんに頼んでおくから」
ぼんやりとしていた頭が、すっと醒めた。
校名が印刷された封筒を見おろす。
なんの装飾もなく事務的な、きっとこの大学に何千何万枚とある封筒のひとつは、ひどくありふれた表情のままオレの視線を受け止めている。
それがまるで先生の眼に映るオレの姿のようで、おもわず耳にあてた受話器を握りしめる。
グググッと、指の関節が軋むほどに。
「……なあカカシせんせ、オレ、金が欲しくて手伝ったわけじゃ、ねえよ?」
受話器の向こう側に、がやがやと何人かが話す声が聞こえる。
先生は無言のままだった。
「デートじゃなくたって、先生の手伝いするのはぜんぜん嫌じゃなかったってばよ。でも、こんなふうに金わたされて、ひとりで帰るのって、寂しいよ」
ガタガタと椅子を引く音がする。
遠くで誰かが呼んでいる。
「……そうだネ。悪かったヨ。ごめんネ?」
先生のやさしい声に謝られるのは、ひどく胸が痛かった。
空いているほうの手で、シャツの心臓あたりをギュウッと握りしめる。
電話線の反対側で、先生がちいさく息を吐く。
「……あー、申し訳ないんだけど、俺そろそろ会議戻らないと」
「ねえ、カカシ先生、オレの名前はうずまきナルトです」
「ん?知ってる、ヨ?」
「誕生日は10月10日」
「まだお祝いするには先だネ」
「将来の夢は大統領になること」
「壮大だネ…ちなみにわが国は大統領制ではないってわかってるんだよネ?」
「好きな食べ物は、ラーメン」
「……」
耳に押しあてた受話器の奥で、バタンと扉が閉まる音がする。
「なあ先生、先生のことオレに教えるのが嫌なら、先生がオレのことを知ってよ。何千人もいる学生のうちのひとりとしてじゃなくて、うずまきナルトっていう人間として、ちゃんとオレを見てよ」
「うずまきくん…」
「下の名前で呼んで」
たぶん、先生はいまきっと、すごく困った顔をしてるだろう。
困らせたいんじゃないんだ。
先生に嫌なおもいをさせたいわけでもない。
だけど頭のなかが渦を巻いて、いろんな気持ちがあちらこちらに吹き飛ばされて、どうにもできない。
こんな気持ちが恋ならば、恋なんてクソだ。
恋なんて、にがくて苦しくてシンドイだけじゃないか。
「……じゃあ、ナルトくん」
「はい」
「ラーメンは、何味が好き?」
唐突な質問に、おもわず手にした受話器をしげしげと眺める。
「……味噌?」
「そっか、それなら」
困らせているのだろうに、先生の声はやっぱりやさしくて、耳に甘く心地よく落ちてくる。
「こんど昼休みに来たときに、味噌ラーメンおごるヨ。といっても学食でだけど」
「ふへ?」
マヌケなオレの返答に、先生がちょっと苦笑する気配がする。
「それ、同情?」
「同情…おわびのしるし、かな?」
受話器ごしに鼓膜を震わすやわらかな声に、泣きたいような気になった。
「あー…ああもう、しょうがねえなあ。じゃあ、今回はそれで許してやるってばよ」
わざとぶっきらぼうに答えたのに、不甲斐もなく語尾が震えた。
「悪い、俺、もういかなきゃ。今日はごめんネ。どうもありがとう」
「うん、じゃあ会議がんばってな。退屈して寝んなよ!」
「ナルトくんじゃあるまいし」
呆れたようにちいさく笑った先生の声を、目を閉じて胸の奥底に刻みつける。
「じゃあ」
「おうってばよ」
フツリと通話の切れた受話器を戻して、大きくひとつ、息を吐く。
白い封筒はそのままに引き出しを閉めて、いつのまにか薄暗くなった部屋をあとにする。
ドアを出たら、すっかり翳った廊下のいちばん奥の窓に、オレンジの夕陽の名残が、まるでなにかの道しるべのように、じわりとあたたかな色を滲ませて広がっていた。
fin. (20091112)
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