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[10]とっくに散ってしまったはずの桜の花びらが、本のページのあいだから出てきた。
なにかのはずみで挟まったんだろう。
すこし黄ばんだ色のちいさな花弁をつまんでベランダに出て、ふっと息を吹きかけて外へ飛ばす。
ベランダのいちばん日当たりのいい場所には、茶色い土がはいっただけのようにみえる植木鉢が五つ並んでいる。
何日か前に蒔いた朝顔の種は、まだ芽をだしていない。
それでもみえない土のしたでは、黒い殻を破った白い根が、すこしずつ伸びはじめていてくれるんだろうか。
おだやかな日差しに、まだ湿り気の残る土がゆっくり温められていくのをぼんやりと眺めていたら、カシャンという音がした。
ベランダ下で郵便配達が自転車にまたがっているのがみえて、階段をおりる。
のぞいたポストの中にはピザの広告とビデオ店のオープン案内のチラシと、はがきが一枚。
『家を新築したから遊びにおいで』
差出人の名前も住所も書かれていないただ一行だけの文面を目にした瞬間に、そのまま里はずれへ向けて走り出していた。
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ところどころにまだ朝露の残った、青い若葉のあいだを駆け抜ける。
足下に踏みしめる大枝は弾力があり、好き放題に伸びていく小枝がときおり鼻先を叩くようにしなる。
視界をおおうほどに茂った緑をかきわけたさきに、ぽつん建った一軒の家。
黒板塀ではなく低い生垣にかこまれたその平屋はまだ真新しく、白木が匂いたつようだ。
息を整えるまもなく幅広の引き戸になった玄関脇のベルを押すと、リリンと涼しい音が鳴る。
「いらっしゃい、ナルト。よく来た…うわっ」
銀髪が目にはいったとたんに、迷わず抱きしめる。
腰をかがめるようにして、旋毛に鼻先を押し付ける。
あちらこちらへと飛び跳ねた癖のある髪は日なたの匂いがして、オレの頬をやわらかく擽る。
熱烈な歓迎だねーえ、と気の抜けたようなのほほんとした声がオレの鳩尾でくぐもって響く。
「ねえ、ちょっと、息苦しいんだけど」
「うん」
「もうちょい離れて」
「うん」
「背中が痛いんだって」
「うん」
「おまえねえ…」
「うん」
抱きついたまま動けないオレの背を、車椅子に腰掛けたままのカカシ先生が宥めるようにポンポンと叩く。
シャツ越しに触れる手のひらの、血の通ったぬくもりのある感触に安堵して、髪に鼻先を埋めたまま大きく息をつく。
「忍犬よりも犬みたいだねえ、おまえは」
呆れたような声は聞き流し、先生の頭のてっぺんにむかって囁く。
「先生」
「ハイハイ」
「問題、だして」
「は?」
「テスト問題」
「あー…。いま?ここで?このままで?」
答えるかわりに腕の力を強めたら、やれやれと先生が苦笑する気配がする。
「ええっとー、そうねえ、廟算の五事を述べよ」
「道・天・地・将・法」
「正解。じゃあ地形の六種とは?」
「通・桂・支・隘・険・遠」
「正解。なあに、すごいじゃないのナルト。それなら兵站の基本的機能とは?」
「へいたん?」
「兵站」
「へい…へい…、ヘイッ!て声かけながらターンすること!」
「…踊ってどうすんのヨ。不正解!巻物のほうに書いてあったでしょー?」
「そっちまで読んでねえよ、オレが読んだのはこれだけ!」
身体をおこし、ずっと手にしたままだった本を先生に差しだす。
赤い表紙を受け取った先生が、目を眇めるようにして本を開く。
ぱらりぱらりとページをめくり、オレがしおりがわりにしていたメモをつまみあげる。
『らくがきするな』と書かれた表側、その裏にはやはり縦書きで『ちゃんと読め、テストするからな!』と記されている。
「テストするってことは、帰ってきてくれるってことだろ?だからオレ、これ読んで、勉強して、待ってたんだってばよ」
ひざの上に開いた本とメモを、先生がじっと見比べる。
長めの前髪のあいだからのぞく睫は、静かに伏せられたまま。
「……一冊だけ、か」
「オレが一冊読めただけでもすげえってばよ」
「威張るんじゃないヨ、そんなこと」
細い指が本の縁を躊躇いがちにすうとなぞる。
無言のまま、なんども、なんども。
「先生?」
「……この家ね、ヤマトが建ててくれたんだ」
「あー…隊長が?」
「天窓つけろとかスロープつくれとか書庫が欲しいとか風呂デカくしろとか散々文句つけてね」
「へええ」
「それで今回のこととチャラってことにした」
色の白い指が、本のページを一枚めくる。
「それであいつの気持ちがおさまるわけないのは、知ってる。あいつは俺を犠牲にして生き残ったとおもっている。そうじゃないなんて言ってみてどうなるもんでもないのも知ってる」
リハビリが進めばもっと動けるようにはなるはずだけど、この眼はもう限界だったから、と先生が片手で左瞼に触れる。
俺はこの眼に依存した戦い方ばかりしてきたからねえ、とわずかに唇の端をゆがめ、また本のページをめくっていく。
「……誰かの犠牲のうえに生き延びていかなければならない苦しみは、俺がいちばんよくわかってる。俺がなにをどう言ってみたところで、俺の姿を見るたびにあいつはきっとこの先ずっと苦しみ続けるんだろう。それでもね」
本のページをめくる指が止まる。
「それでも、俺は生きていかなくちゃいけないんだそうだ。みっともなく足掻きながら生き続けていく姿をおまえたちに見せるのが俺の役目なんだって……俺、すごい貧乏くじだよネ」
ととのった指のさきが、オレの描いたカカシ先生のらくがきをそっとなぞる。
口布をして、斜めの額宛で左目を隠して、ボサボサの頭に眠そうな右目の『写輪眼のカカシ』の絵を。
「先生」
「まあでも戻ってこられてよかったよー、おまえの脳味噌に皴が一本できたのが見れたしー」
「一本だけじゃねえよ、オレすごい頑張って読んだもん。二本くらいはできてるはずだってばよ」
「二本ねー、おまえってけっこう謙虚なのねー」
「先生」
車椅子の前に、ひざをつく。
「カカシ先生」
冗談めかした笑い声をあげながらも俯いたままだった先生の視線を、低い位置からすくいあげるように捕らえる。
「あのな、長い時間ずっと一緒にいると、人ってだんだん似てくるんだって」
らくがきをなぞっていた手首を掴まえて、ちょっと驚いたような顔をする先生の視線を逃さぬようにじっと見上げる。
「だから先生、オレに似なよ。みっともなく足掻きながら生きるってことで、オレの右にでるやつはいねえよ。オレに似るまでこのさきずっとオレと一緒に生きてってくれってばよ」
先生の右眼がおおおきく瞠られる。
握った先生の手首から、低めの体温が伝わってくる。
やがて、静脈が透けるほどに薄い瞼が、ゆっくりと瞬きする。
「……俺が、おまえに似るの?」
「そうだってばよ」
「一緒に、生きて?」
「うん」
「……そっか」
そっか、ともういちど呟いた先生が、瞼を閉じる。
なにかを堪えるかのように眉根がわずかに寄せられる。
長い睫が、かすかに震える。
しずかにながく息が吐きだされる。
そして口元が、じんわりとちいさな笑みの形になる。
殺風景な土の表面に、みずみずしい新芽が顔を出すかのように。
「おまえに似るのかあ………やだなあ」
「ちょ、せんせ!」
「口癖も似ちゃったりして?」
「だってばよはカッコイイってばよ」
「記憶力がナルトに似たら、俺ボケたとおもわれそうだよね」
「んなヒドくねえってばよ!」
オレに掴まれたままの右手首をもちあげた先生が、オレの手の甲あたりに左の拳をコツンと当てる。
「じゃあ俺が似たいとおもえるようなイイ男になってよネ。見ててあげるから」
カカシ先生が眼を細めてオレを見おろす。
やさしげで、でも間違いようもなく強い、オレの誇りにするひとのまなざしに、胸の奥底から言葉にできない衝動が押し寄せる。
「…っ、もちろんだってばよ!」
先生の両手ごと掴んで引き寄せて、ぎゅうとおもいきり抱きしめる。
オレの腕のなかで、ぐええと先生が色気のない声をあげる。
細身の身体はオレより体温が低くてひんやりと感じる。
もっと傍で一緒にいたら、オレとおなじ体温にまで温まってくれるだろうか。
「…とりあえず、オレに似るために今日の飯はラーメンな」
「えー」
「先生のには野菜も入れてやるってばよ!」
「おまえが野菜食べなさいって…」
「トンコツか味噌かっていったらやっぱ味噌な気分だよな!」
「俺は味噌汁とか高野豆腐とか焼魚とか筑前煮が食べたい、っテバヨ」
「よっしゃ!じゃあそれもラーメンに入れてやるってば!」
「入れないで……」
腕のなかにいる先生の鼓動が、押し当てた耳の奥でトクトクと鳴っている。
それがまるで暗く果てのない海の先に点滅する灯台の明かりのようにおもえて、目を閉じたまま、抱きしめた腕に力をこめた。
Fin.(20101218)
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