Away From The Sun

[4]

踏み出した右足の下で、夜露をいだいた苔がグシャリと潰れた。

真っ暗な森のなかを、ひとり歩く。
鬱蒼と生い茂った樹葉に覆われて陽光の届くことのない地表は、じっとりと湿った落葉と濃緑の羊歯の葉が埋め尽くしている。
足裏で泥濘がぐちゅりぐちゅりと音を立てる。
剥きだしになっている足指の先が、生温かく濡れていく。

ザワザワと揺れるシダをかきわけながら、樹々のあいだを進む。
人間の気配はないが、あちらこちらに夜行性の動物たちの息遣いを感じる。
リー、リー、という虫の音は、近づくにつれてしんと潜まり、通り過ぎるとまた何事もなかったかのように鳴き始める。

やがて、ひときわ貫禄のある杉の幹が見えてくる。
大人数名でも抱えきれないほどの太い樹の表面は濃い褐色をしている。
ぬかるみを踏みしめてきた歩調を止めることなく杉の根元に足をかけ、そのまま垂直に太い幹を歩いて登る。
カサカサと乾いた樹皮が、幾片か剥がれて落ちる。
張り出した大枝を迂回して、密集した枝葉をかいくぐりながら、上へ、上へと歩いていく。

地表からどんどんと離れていくにつれ、がっしりと揺らぎもしなかった樹幹が細くなっていき、一歩ごとに頼りなく撓りはじめる。
周囲を暗く覆っていた葉群に、隙間がのぞきだす。
好き勝手な方向に伸びて絡み付くような小枝を払いのける。
幾枚もの木葉が舞い落ちていく。

そして唐突に視界が開ける。
眼前を覆っていた葉が途切れた先には、薄藍の空が広がっていた。
ところどころに、刷毛で掃いたような雲の影が浮かんでいる。
星空の名残の惑星がひとつ、白金色に光っている。

折れそうに細くなった枝のいちばん先に足を乗せ、大樹のてっぺんにまっすぐ立つ。
視界をさえぎるものはなにもない。
足下で木々の葉がざわめく。
ひんやりとした風が耳朶をなでる。

じわりと温かな掌を背に押し当てられたような感触に振り返ると、ちょうど東の空が白み始めたところだった。
地平がオレンジに染まる。
闇の空が溶かされていく。
ああ、夜が明けていく。

大きく深呼吸をして目を伏せる。
瞼を閉じても、光を感じる。
あちらこちらでチキチキと鳴く鳥の声と羽ばたきが聴こえる。
足裏を支える細枝が、ふわりふわりと揺れている。


***


瞼をひらいたら、天井が見えた。
木目が浮きでた真新しい長板が何枚もきっちりと等間隔に並んだ、もう見慣れた天井だ。
右眼だけをゆっくりまばたきする。
窓辺から眩しい陽光が差し込み、チキチキと鳥がさえずっている。
朝か。

腕の力だけを使って上体をおこしたら、腰に重たい鈍痛が走った。
痛みの原因をあえて考えないようにしながら、ベッドサイドの車椅子に手を伸ばす。
ハンドルに手を掛けた拍子に車椅子がゆらりと動き、あ、とおもう間もなくバランスを崩してベッドの脇に落下する。
どたん、と鈍い音が響く。
ストッパーが掛かっていなかったらしい車椅子の車輪は、そのままの勢いでゆるゆると回って遠ざかっていく。

みっともなく落っこちた体勢のまま、はは、と苦笑する。
固い床にくっつけた頬がひんやり冷たい。
朝の光が板床の上でチラチラと揺れている。
巻き添えをくらって落ちたらしい空のペットボトルが視線の先に転がっている。
拾おうとして差し伸べた右指の、爪の先だけがボトルキャップを掠める。
掴み損ねた透明のボトルが、床の上でくるくるとコマのように回転する。

「このままでも、なんでもできるよ」

そんな己の言葉がふいに脳裏を掠めて、また笑いがこみあげる。
なんでもできる、そう、なんだって。

「このままでなにも不自由していない」

朝、起きてベッドから降りる。
床に落ちたボトルを拾う。
そんな些細なことすら、おもうようにいかないのに。

くるりくるりと回り続けていたボトルの動きが止まる。
伸ばしていた右腕を持ち上げて頭上にかざし、指を動かしてみる。
おなじように動かそうとしてみた足指の感覚は、ぼんやりとひどく遠いところにある。
踵が床に触れているのはわかる。
でも、それだけだ。

夢の断片がおもい浮かぶ。
重力に逆らって樹の幹を歩いてのぼっていく、あれはひそかに気に入っていた場所だった。
ずいぶんと未練がましい夢を見たものだ。
土を踏みしめて立ち、枝を蹴って跳躍して、何十里かの距離を休みもせず一息に駆けぬけるだなんてずっとあたりまえのことだったから、それができなくなる日が来るなんて想像したこともなかった。
できなくなるなら、それは己が死ぬときだけだと。
こんな姿で生き延びることがあるとはおもわなかった。

持ち上げていた腕を床に沿うように伸ばし、上半身を捻るようにして、ごろり、と重く寝返りをうつ。
両肘を曲げて、匍匐前進の要領で床をズルリ、ズルリと這う。
地面に蠢く虫のように。

それでも、己が生きていることに意味はあるのだろう。
使いものにならなくなった写輪眼のカカシを里は見捨てず手厚く保護していると、身を粉にして尽くせば里は最期まで面倒を見てくれるのだと示しておくのは、次代の忍を育成し統率していくのに有利に働くだろう。
次代の忍、それはきっと、火影になったナルトに従って木ノ葉を支えるものたちだ。

ズルリ、ズルリと這い擦りながら腕を伸ばしてペットボトルをつかみ、そのまま車椅子に近づく。
指先にようやく捕らえた車輪を引き寄せストッパーを掛け、ペットボトルは口にくわえて、両手ですがりつくような姿勢で車椅子によじ登る。
それだけのことで、二の腕の筋肉に重みが残る。

ドサッと座面に腰をおろして、くわえていたペットボトルをサイドテーブルめがけてふっと吹き飛ばす。
ポコンという軽い音を立てていったんテーブルの上に乗ったボトルは、コロコロと転がってまた床に落ちた。
あああ、と溜息をついて、車椅子の背に後頭部をもたせ掛ける。

生きろ、といわれた。
忍として役に立たなくなっても、生き続けていることに価値があるのだと。
価値、それはいつまであるのだろう。
いつまで生き続ければ、無くなってくれるのだろう。

価値があるというのなら、好きなだけもっていってくれればいい。
それが大義名分でも、一時的なぬくもり、もしくは快楽でも。
俺はもう、ここからは動かない。
ここに留まって、地を這う虫のようにみっともなく足掻きながら生きていくだけだ。
どのみち任務にでることもないのだから。
もう二度と、あの樹上の夜明けを見ることもないのだから。

そしていつか残ったすべてを差しだし尽くしたなら、こんどこそ誰からも忘れられて、ここでひとり静かに朽ち果てることができるのだろうか。

見上げている天井板は、まだくすむこともなく真新しすぎる色をしている。
ここから先にのびていく時間の長さをおもい描いて浮かべた笑みはやはり、ひどく苦い味がした。


***


グネグネと曲がりくねった樹の枝のひとつに腰をかけ、幹に背をもたせかけて欠伸をひとつする。
いまごろカカシ先生はなにをしているだろう。
ちゃんと飯を食っただろうか、とおもったとたんにグウウと腹が鳴った。
はらへった。

旨くもない兵糧丸を一粒ぽいと口に放り込み、モソモソと咀嚼しながらおざなりに周囲を見回す。
見張りったってこんな真昼間に何か仕掛けてくるようなバカはいないだろうに、露営地では常時四方位に隔番を置くのがセオリーだとかなんだとかほんとネジってクソマジメっていうか石頭っていうかなのになんでモテんだマジむかつく。
べつに女の子にキャアキャアいわれたいわけじゃねえけど、キャアキャアいわれてるオレを見たら先生はちょっとくらい妬いてくれるかなって、まあムリかムリだよな。
先生はそもそもオレのことをどうおもっているんだろう。
嫌われていないのはわかっている。
むしろけっこう無理いったり無茶したり呆れられるようなことをしでかしても、最後にはまちがいなく受け入れてもらえるのを知っている。
でもそれは、どんな言葉で呼ぶべきものなんだろう。
先生に会うたびに繰りかえさずにはいられないあの行為を、してもいい感情なんだろうか。
それとも先生は、ガキすぎるオレに、しかたなく付き合ってくれているだけなんだろうか。
低く甘い声、上気した肌、その内側の絡みつく熱をおもいだしてゴクリと唾を飲み込む。
だめだだめだ。
いつも簡単に釣られるって、いわれたばっかりじゃないか。
だけど実際に先生を目のまえにしたら、抑えられるわけがない、ブレーキなんてきかない。
だからガキだっておもわれるんだよな。
オトナになるって、どうやったらなれるんだろう。
年齢だけなら22になったけれど、それでも先生に14年足らない。
たとえばもっと本を読んだら、もっと兵法とかを勉強したら、先生はオレをオトナだとおもってくれるようになるんだろうか。

「おおーい、ナルトくーん!」

よく通る声で名前を呼ばれて、見おろした樹下に真っ黒なおかっぱ頭がいた。

「リーじゃねえか、どうしたー?」
「これ、ナルトくんにってー」

リーが20cmほどの長方形の茶色い包みを、両手でちょっと掲げる。
…ってあれは、もしかして、また?

「なんでおまえまでもがそんなの持ってくんだってばよ!」
「なんでって、頼まれたからですけどー?」
「あ!ああそっか、頼まれたんだよな?わりぃ、そうだよな!おまえってばその中味知らないんだよな!!」
「知ってますよ?」
「え!マジで?!」
「マジでって、ボクの分も貰いましたし。たぶんナルトくんのと同じようなの入ってたんじゃないかな。なかなか悪くなかったですよ」
「悪くなかったって…?!それ、見たの?おまえ、が?」
「そりゃあもちろん。なんでそんな驚くんですか…」

リーがちょっと困ったように首をかしげて苦笑する。
つぶらな瞳は昔から変わらないけれど、こうやって樹の上から見おろすと肩幅は広いし胸板もけっこう厚みがあるのがわかる。
昔は激眉先生のミニチュアみたいだったけれど、いまはリアルサイズの激眉先生だ。
そうだオレが成長してるんだからこいつだって成長してるわけで。

「や…ごめん、なんかおまえはそういうことあんまり興味ないとかおもってたってばよ。修行ばっかしてるしさあ、なんも欲なさそうっていうか真面目すぎっていうか仙人みたいっていうかな…」
「なにいってるんですか、仙人はナルトくんでしょ?」

リーが白い歯を見せてニコッと笑う。

「厳しくストイックな修行を積むのは大事なことですけれど、人間として当然の欲求を否定してはいけないのだとガイ先生は常々おっしゃっていますよ」
「トウゼンの欲求…?」
「体が欲するものをきちんと見極めて、それを受け入れてこそ本当に身体をコントロールできるようになるんだ、って。ボクなんかはまだまだなんですけれどね。ときどきがっつき過ぎちゃうし」
「がっつく?おまえが??」
「お恥ずかしながら。まだまだ修行が足らなくて」

黒くまっすぐな髪から覗いた耳の後ろを、ちょっと照れたように掻く。
その日に焼けた指先はしっかりと節ばっていて、ああそうか、こいつはもうコドモじゃないんだ、と唐突におもう。
リーだけじゃなくて同期のやつらもみんなずっと一緒に過ごしてきたからお互いなにも変わっていないような気がしていたけれど、アカデミーを卒業して、もう十年になるんだ。
なにも知らない子どもでいられるわけも、ない。

「まあ、そういうわけで、これどうぞ。ネジが手配してくれたんですよ」

リーのことばに、おもわず枝からずり落ちそうになる。

「はっあぁああ?ネジ??」
「ネジもね、融通きかないとか規律に厳しすぎるとかいわれやすいですけれど、ボクたち忍は機械じゃないんだってちゃんとわかっていますよ。殺伐としがちな任務のなかでストイックであるべきところはきちんと律しなくてはならなくても、人間らしくしていられる余裕があるときには人間らしくしているべきだって」

だって、それがボクたちの先生の教えなんです、と。
誇らしげに胸を張ったリーが、オレをまっすぐ見上げて微笑む。
だからこれどうぞ、と背伸びをするように頭上へ茶色い包みを差しあげながら。

「……そっか、わかったってばよ。じゃあこっちに投げてくれよ」
「駄目ですよ、投げるだなんて罰当たりです」
「罰当たりって大袈裟だってば…」

神聖視ってのを、してるんだろうか。
そういうところはなんかリーらしいよなあとおもいつつ、足裏にチャクラを集中して、腰掛けていた枝の裏側に、コウモリがぶら下がるようにまっすぐ立って、手をさしのべる。
指先をいっぱいに伸ばしてかろうじて受け取った茶色い紙包みは、意外に厚みがあった。

「これ…なんかいっぱい入ってねえ?けっこう重みあるんだけど」
「4つ入ってますよ。ひとつで足りるわけないでしょ?ナルトくんのスタミナで」
「ス、スタミナ…?ちょ、おまえにそういうセリフいわれるってオレすごい照れるんだけど」
「なにをいまさら。じゃあボクは本部に戻りますからね。見張り番、頑張ってください!」
「おお、サンキュ。ネジにも、その……、ありがとうって、いっといてくれってばよ」

わかりました、とにこりと笑って手を振ったリーが、くるりと背を向けて立ち去っていく。
逆さまにぶら下がったままでその姿勢良い後姿を見送ってから、手にした紙包みをおそるおそる覗いてみる。
包みの中には薄板でできた箱。
そのなかには、おにぎりが4つ。

おにぎり?

一瞬あたまのなかが真っ白になった、とたんに集中力が切れて、チャクラで吸着していた枝から足裏が離れて真っ逆さまに落っこちる。

「おっわあああーっ!」

地面に激突する直前にかろうじて体を捻り、頭の直撃は避けたものの背中をバッシーンと強打する。
あまりの痛みに息が詰まる。
いってええ、と唸りながら見あげた視界で、さっきまでぶら下がっていた枝が揺れている。
そのずっと上、幾枚も重なり合った深緑の木の葉のあいだから、ちらちらと青い空のカケラが覗いている。

溜息をついたら、鼻先を海苔と紫蘇の香が掠めた。
落下しながらも死守していた包みを持ち上げてみて、ぶははははっ、と吹きだす。
人間としてトウゼンの欲求か。
そうだよな、食欲ってすっげえ大事だってばよ!

寝転がった姿勢のまま大きめのおにぎりをひとつ取り出して、ガブリとかぶりつく。
塩気のある米の味が口の中に広がる。
もぐもぐと噛んで飲み込めば、兵糧丸とは比べ物にならないしっかりとした重みが腹の底に落ちていくのがわかる。
食っている、とおもう。
足りない栄養分を補給しているってだけじゃなくて、ちゃんと「ごはんを食べている」という気がする。
この気持ちがたぶん、リーがいってた「人間らしい」ってことなんだろう。

オトナなんだよな、リーもネジも。
体術を磨いて強くなるだけじゃなくて、しっかりと頭でも考えている。
じゃあ、オレはどうなんだろう。

指についた米つぶを舐め取って、ポーチの中から赤い表紙のちいさめの本を取り出してみる。
なんとなくいつも持ち歩いているその本のページを指先でぱらぱらと繰っていけば、まんなかあたりのページの隅に落書きがある。
斜めの額宛に口布、眠そうな目をした怪しい風体の、オレの先生の絵。

しばらくその落書きを眺めてから、パタンと本を閉じる。
そしてもういちど表紙を開く。
おにぎりをひとつ掴んで、かぶりつく。

それから口をもぐもぐさせながら、本の1ページ目のいちばん最初の文字から、じっくりと読みかえし始めていった。

(20120115)

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