勇敢なあたらしい世界

[1]

大学の敷地の北東にある教育学部棟からほぼ正反対側の西の外れまで、一気に走りぬけた勢いのまま工学部壱號舘の古びた6段の階段をポンと飛び越えて、人気のない建物にはいる。
しんとした屋内はいつも以上に薄暗い、とおもったら廊下の中ほどでガシャガシャンという音。

「あれ?なにやってんの?」
「お、ちょうどよかった、そこのスイッチいれてくれるか?」

脚立にのぼったイケメン用務員さんが、取り替えたばかりらしい古い蛍光灯の先端で、オレの右後ろあたりを指し示す。
振り返った壁際に電気のスイッチが並んでいる。
オフになっていたスイッチをパチリと入れたとたんに、薄暗かった廊下がパッと明るくなる。

くわえ楊枝で眩しそうに照明をみあげた用務員さんが、サンキュと蛍光灯を持っていないほうの手をひらひらさせる。
ドイタシマシテとこちらも片手をあげて、あっかるーい光のさすほーうにー、と鼻歌をうたいながら廊下をすすむ。
まっぶしーい光はボクらの未来さー。
トトンッと階段を駆け上がって工学部中央図書室と書かれたドアのノブに手を伸ばす。

「やっ、ちょっと待って!」

ドアの向こうから、聞き覚えのある声がした。
カカシ先生の声だ。
ノブをつかんだまま、おもわず動きを止める。
誰かの低い声が、ぼそぼそとなにか答える。

「待ってよアスマ、俺久しぶりなんだから…っ、手加減するって、言ったじゃない…」

どこか甘えるようなカカシ先生の声が、訴える。
なに、やってるんだ…?
ズズッとイスの足が床に引きずられる音。
低くて聞き取りにくい声が、なにか言う。

「ホントに久しぶりなの!こんな物好きなこと、アンタ以外とするわけないデショ…」

ちょっと拗ねたような先生の口調。
低音の返答に重なるように、ミシッとなにかが軋む。
手にしたノブの金属がひどく冷たく感じる。
無意識のうちに生唾を飲み込んだら、ゴクリという音が鼓膜のなかで妙におおきく響いて、焦る。
なんだこれ…?

「だいたい、こんなトコでまでこんなことやりたがるのなんてアンタだけデショ。付きあってあげてるんだから、もっと手加減してってば…」

ドアにくっつけるようにして澄ました耳に、カカシ先生の声が入り込む。

そのつぎの、返答は、聞き取れた。
おまえだって楽しんでるくせに、と。
背筋がゾクリとするような、含み笑いの低い声で。

「あ、待って、アスマ、やめて、やっ…」

おもいっきりドアを押し開ける。

「カカシ先生!」
「王手!」
「うわあああーっ」

一瞬の静寂のあと、室内で机を挟んで向き合って座っていた二人が振り返る。
積み上げられた本の山のあいだに、碁盤の目の引かれた板と、ちらばった駒。

「……あ?将棋?」
「あれ、キミまた来たの?」
「なんだコイツは?」

カカシ先生の向こう側に腰掛けていた低い声の持ち主は、座っていても威圧感があるほどの大柄な男だった。
顔の輪郭を覆うように生やした髭を撫でながら、おもしろそうにジロジロとこちらを眺める。
男がもたれかかった事務用椅子が、重たそうにギシッと軋む。

「カカシ先生、なんだよコイツ!」
「あんたたちね…二人そろって『コイツ』呼ばわりとかしないでくれる?」

溜息をつきながらカカシ先生がこちらに向き直る。
あいかわらずの白衣姿で、顔の半分はマスクに隠れている。

「ええとね、こちらうずまきナルトくん、教育学部の一年生。うずまきくん、こちらは猿飛アスマ先生。建築学部の准教授ネ」
「おう、ヨロシクな、うずまき君」

ニヤッと笑みをつくった大男が、挨拶がわりにひょいと片手をあげる。
大きな手のひらだ。
オレよりもずっとずっと大きい。
なんだか無性に悔しくなる。

「なんで将棋なんてやってんだよ、仕事中だろ?」

ついつっけんどんに言ったら、俺いちおういま昼休み中なのよネ、とカカシ先生が首をすくめる。

「うずまき君は一年か。奈良って一年生知ってるか?建築にはいってきたんだが、こいつがなんかやたらと将棋強くてな。軽く捻ってやろうとおもったのに、いまおれ三連敗中なんだわ。で、情けねえから此処でこっそり修行してたってわけだ。まあ、カカシは弱すぎて修行にならんかったけどな」
「だから俺、将棋なんて久しぶりなんだって!手加減してくれるって言ったのに!」
「勝負に加減もなにもあるかよ」
「騙したなーっ!」

ポンポンと言葉の応酬をするカカシ先生はなんだかいつもより肩の力が抜けていて、マスクに半分も隠されていてさえ表情がやわらかいのがわかる。
そもそもオレに対しては、こんなぞんざいな口なんてきかないのに。

「ちゃんと相手してあげたんだから、俺との約束も守ってよネ!」
「ぜんぜん相手にならんかったんだけどな」
「アスマ!」
「へいへい」

しかもお互い呼び捨てだ。
たまりかねて二人の会話に口を突っこむ。

「ちょっ、カカシ先生、コイツとの約束って、なに?!」
「そんなのうずまきくんにはどうでもいいことデショ。それよりキミはまた本を探しに来たんじゃないの?」
「そうだけど!そんなこと今はどうでもいいってばよ!!」
「いや、それはどうでもよくないデショ」
「なんだ、やけに懐かれてんだな」

ザラザラと将棋の駒を袋にしまったアスマが、ニヤニヤと口端に笑いをうかべたまま、のそりと立ち上がる。
オレよりも10cm以上は高いところにある頭の先を、ついバカみたいに見上げてしまった自分に腹立たしくなる。

「あれ、アスマ、もう行くの?」
「おまえじゃ弱すぎてつまらんから、ゲンさんにでも相手してもらってくる」
「悪かったネ!あんたなんかゲンマくんにコテンパンにされちゃえ!」

腰に手をあててどこか子どもっぽく言い放つカカシ先生のそばを飄々とすり抜けてきた大男が、なにをおもったか突然オレの頭のてっぺんを大きな手のひらで捕まえて、髪をぐちゃぐちゃとかき回す。

「な…っ!」
「カカシは結構手ごわいぞ、せいぜい頑張れよ」

低い声でぼそりと耳元に囁かれたとおもったら、バシッとおもいきり背中をたたかれて、不覚にもちょっとよろめいた隙に男がじゃあなとドアを出て行く。
キイイィと軋みながら閉まっていくドアの合間に、ふっと煙草の香が漂う。

「……さて、どの本が欲しいんだっけ?」

検索用端末のマウスを動かしてブラックアウトしていたモニタ画面を復帰させたカカシ先生が、オレの手元のメモに目を向ける。
あの大男に染み付いていたらしい煙草の残り香が薄れていくにしたがって、カカシ先生の態度もいつもの淡々とした仕事モードへと変わっていくようで、焦って、叫ぶ。

「先生!デートして!」
「…はあ?なに言ってんの?」
「だってオレ、先生のことなにも知らないんだもん!」

勢い込んで言ったのに、先生はちょっと首をすくめただけだった。

「そんなの知る必要ないデショ。むしろこっちをちゃんと調べなさいよ…ほら、そこに書名を入力して…」
「知りたいの!」

オレが手にした書名のメモにしか興味のなさそうなカカシ先生の視界に、無理やり割り込んで、叫ぶ。

「オレは、カカシ先生のことが、もっと知りたいの!だから…っ」

まっすぐに視線を捕まえて訴えたら、カカシ先生は色素の薄い瞳をちょっとだけ瞠り、それからゆっくりと瞬きした。
静かな室内で、ジジジジッという検索用端末の動作音だけが、やけに耳につく。

「……ふうん」

すいと視線をはずした先生が、細い指先で癖の強い髪をもそもそと掻く。
好き勝手な方向に跳ねた前髪のあいだにのぞく、伏せた睫毛が、長かった。

「じゃあ、今度の土曜日、あいてる?」
「…え?」
「あいてるなら、ココ来てよ。朝9時厳守ネ」
「……ええ?」
「忙しいなら、べつにいいヨ?」
「来ます!」

絶対に来るってばよ、たとえ大雨が降っても大槍が降っても!
勢いづいて身を乗り出したオレからひょいと奪い取ったメモにちらりと視線を投げて、ああハクスリーのブレイブニューワールドね、と先生が呟く。

「この本なら中央館にあるから、行っておいで。貸出中じゃなければ933の棚にあるヨ」

トンッとオレの胸にメモを付き返した先生が、ついでのように検索端末の横に積んであった5冊ほどのさほど重くもなさそうな本をヨイショと声をかけながら持ち上げて、自分のデスクへと運んでいく。
その猫背気味の背中に、あわてて声をかける。

「土曜日の、9時な!オレぜったい来るってばよ!」

振りかえりもしない白衣姿がひらひらと片手を振るのを確認して、じゃあ土曜日に、ともう一度叫んで、先生の気が変わらないうちに図書室のドアを出る。

廊下に一歩足を踏み出すたびに、スニーカーの底がリノリウムの床にこすれてキュッキュと音を立てる。
なのになぜだか足元はふわふわと覚束ない。
なんだ、なんかオレいまなら空飛べちゃうんじゃないの?
空回りする頭の中でバカみたいなことを考えながら見上げた窓の外に、真っ白な雲がぷかりぷかりといくつも浮かんでいた。

→[2]

(20091012)


<テキストへもどる>