勇敢なあたらしい世界
[2]9:37
携帯の画面右隅に表示されるデジタル時計の数字に目をやって、何度目かわからない溜息をつく。
今朝、工学部中央図書室に着いたときに表示されていた時間は8:38、約束の時間は9:00だったはずだ。
早目に到着した分についてまで文句をいうつもりはもちろんないが、殺風景な廊下に立ちっぱなしでもう一時間。
いい加減ちょっと足が疲れてきて、壁に背中をもたせかけたままズルズルとしゃがみこむ。
この状況で、すっぽかされたんじゃないかという気にならずにいられるのは、ひとえに工学部中央図書室のドアの鍵が開いているからだ。
開いては、いる。
でも肝心のひとは、中にいない。
「いったいどこ行っちまったんだってばよ…」
待ち合わせ場所が違うというのはありえない。
そもそもオレはここ以外の場所でカカシ先生に会ったことなんてない。
ここ以外のどこへ行けば先生に会えるのかなんて、わかるわけもないんだ。
「あーいい天気…」
薄暗い廊下に座り込んで見上げる先に、窓枠で四角く切り取られた青空がいくつも並んでいる。
「……あ、うずまきくん、おまたせー」
ペッタペッタとサンダルの足音を鳴らしながらカカシ先生が現れたのは、オレが最後に時間を確認した9:57からさらに数分が過ぎたあとだった。
「おっせえよ、先生!」
「ゴメンゴメン、ちょっと京都議定と職業倫理の板ばさみになってて」
「は?」
「中で待ってればよかったのに。開いてたデショ?」
「開いてたけど、廊下にいるほうが先生来たらすぐわかるじゃん」
「…ふうん?」
ちらりとだけ俺の顔に視線を投げた先生が、キイイと図書室のドアを押しあけて、中から一台のブックトラックを引っ張り出す。
ガラゴロガラゴロと重たげな音を立てるブックトラックには、ラベルを貼られた古そうな本がぎっしり詰まっている。
「はい、これ押してきてネ。こっち」
ポケットに手を突っこんだ先生がペタペタと廊下を歩いていくのに、慌てて目の前のブックトラックの取っ手を掴む。
タイヤが付いているとはいえ、ぎっしりと本が詰まったブックトラックは、かなり重い。
「ちょ、せんせ、待って!」
白と灰色ばかりの殺風景な通路を振り返りもせずに進む先生が、途中で右に曲がる。
壁がなんだか不自然に突き出ているなあとおもったら、そこはエレベーターだった。
しかもずいぶん年代もののエレベーターだ。
扉の分厚さが普通のマンションのエレベーターの倍ほどもあるし、なにより開閉ボタンが、パネルじゃない。
ペットボトルの蓋を貼り付けたかのような厚みある丸いボタンが、ボコンと壁から突き出ているのだ。
カカシ先生がぐいとそのボタンを押すと、グオオオンという重厚な音を立ててエレベーターのドアが開く。
先生が乗り込むのに続いて、狭い内部にブックトラックと自分の身体を無理やり押し込むと、先生が地階と書かれたやはり厚みのある黒いペットボトルキャップボタンをぎゅううと押す。
ガッコン、と揺れて動き出すエレベーターに、ちょっとどころではない恐怖を感じる。
大丈夫かこれ、とおもってカカシ先生を盗み見るが、先生は平気な顔だ。
とまったらどうするんだろ、とおもって、気がついた。
エレベーター内部の壁に、黒電話が取り付けてある。
昔の漫画にでてくるような、鉄アレイみたいな格好の受話器が付いてるダイヤル式のやつだ。
故障したらあれで外に連絡すんの?
マジ?
なんでこんななにからなにまで年代物なんだ。
工学部って、金ないのか?
ごちゃごちゃと考えていたらガッコンとまた大きく揺れて、エレベーターが地階に到着する。
そこは図書室のあるフロアとつくりは一緒だったけれど、さらに薄暗く、天井にはむきだしの配線が張りめぐらされ、壁のあちこちには「高圧注意!」の黄色い警告が貼られていた。
先生は躊躇なくペタペタと廊下の先の暗がりへと歩いていく。
薄ぼんやりと浮かぶ白衣の後姿はまるで…
「マッドサイエンティスト…」
「ん?なにかいった?」
「オレ、実験台かなんかにされんの…?」
「なに言ってんの…着いたヨ」
先生がポケットから鍵束を出して、廊下のつきあたりのドアを開ける。
パチリとつけた蛍光灯に照らし出されたのは、船の舵に似たハンドルが付いた天井までもある鼠色の壁の列だった。
「なにココ?」
「書庫」
先生がハンドルのひとつをぐるぐると回すと、鼠色の壁のあいだがスイーッと開いて、ずらりと本が並んだ棚が現れる。
「ココは比較的使用頻度の低い本が並んでるの。本はどんどん増えるからネ…必要に迫られてとりあえず空いたところを書庫に改造していくから、あちこちの辺鄙なところに書庫があるんだヨ。というわけでそのブックトラックの本、ここに並べていってくれる?」
「あの…先生、いちおう念のために確認しておくけどさ、今日は、デートじゃ、ないんです、ね?」
先生がいつもの白衣とマスク姿で図書室前に現れた時点で確定したも同然の事実を、それでもちょっとばかりの可能性と期待を捨てきれずに口に出してみる。
「うずまきくんは俺のことが知りたいんでしょ?で、これが俺の仕事。なんかさー、図書館で仕事してるっていうとやたらと暇そうって言われるんだよね。本の貸出返却のときにバーコードをピッてするだけで、あとは本読んでればいいんでしょ、とかさ。貸出返却処理なんて、俺の仕事全体の2%くらいなのに…あ、その本ちゃんとラベルの分類番号順にならべてネ」
なんとなく手に取ったブックトラックの古い本を、しげしげと見る。
ラベルに書かれた数字は、502.1。
書棚を順番に左から右、上から下へと眺めていって、ようやくおなじ数字のラベルが貼られた本の並んだ場所を見つける。
なんかずいぶん面倒くさそう。
ちらりと先生に目をやると、もうすでに5、6冊ほどの本を並べ終えている。
棚に並んでいる本の番号と位置の全部が頭にはいってるんじゃないだろうかというほど迷いもなく、トントンと軽い音を立てて本が書棚に収められていく。
ひょいといちばん上の棚へ手を伸ばした先生の手首が、白衣の袖口からのぞく。
その、骨ばっているのにどこか優美な印象のある、すんなりとした細さに目を奪われる。
図書館の仕事が知りたかったわけじゃないんだけど、これはこれでなかなかいいんじゃないの?
なんたって静かな密室で、先生と二人っきりだってばよ?
けっこうチャンスだったりするんじゃねえ?
「え〜、オホン、ええ〜っと、カカシせんせは、いま、付き合ってる人とかい…」
「あ、ダメだよそれ、おなじ分類番号の本は、著者名のアルファベット順に並べてくれないと。ラベルの2段目にアルファベット書いてあるでしょ?」
「え?あ、ホントだ。これRでこっちNだ…って、あれ、RってNより前だっけ後ろだっけ?」
「…キミはほんとに大学生?」
「あ、冗談だってばよわかるってばよ!え〜っとA、B、C、D…」
大昔に習ったABCのうたを歌いはじめたら、時間かかりそうだねえ、とカカシ先生が溜息をつく。
「H、I、J、K…」
歌い続けるオレにかまわず、先生が次の本を手に取り、すいと書棚のいちばん下へと身をかがめる。
うつむいた先生の白いうなじが、癖のある髪のあいだから覗く。
なめらかそうな肌に、首の付根の骨が浮きあがり、あるかないかの影をつくる。
それはひどく喉の渇きをおぼえる眺めで、オレはおもわず生唾を飲み込む。
「…っ」
「わかった?」
「え?あ…え、あれ、どこまでいったっけ?」
「……やっぱキミにこの作業は無理だったか」
「や、そんなことないってばよ、わかる、わかるって、A、B、C、D…」
「ハイハイ」
再び溜息をついた先生が、ブックトラックに乗せてきた本をザクザクと床におろして、空になったトラックをオレに押し付ける。
「中央図書室入ってすぐ右側の壁にまだ本がいっぱい積んであるから、運んできてくれる?俺はここで配架してるから」
「えー!オレもここで先生と一緒にやるってばよ!」
「QはTの前?後ろ?」
「あ?え?えーっと…」
「ハイ、失格」
ポイッとドアの外に放り出される。
「ちょ、せんせ、わかったわかった!Qが前〜!」
「遅い。出直しといで」
「そんなぁああ〜」
嘆いてみても扉は無情に閉ざされる。
がっくりと肩を落として、軽くなったブックトラックをガラガラと押しながら暗い廊下をすごすご引き返す。
つぎに戻ってくるまでにはABCのうた完璧になるまで歌って覚えてやるっと力いっぱい決意しながら、おんぼろエレベーターの古びたボタンをぎゅむむと押した。
→[3]
(20091020)
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