その手に意味がある


ひんやりと冷たい両手が、頬を包む。
くすぐったいほどに軽く触れ合う唇の温度も、どこか低いような感じがする。

電気の消えた薄暗い部屋のなかを、初夏の気配をまとった涼しい風がやわらかく吹き抜けていく。
車やバイクのエンジン音が、遠くのほうから聞こえてくる。
マンションの8階までは虫も来ないからと開け放たれたままの窓辺で、ふと動く影に気を取られて視線を向ければ植え替えたばかりの紫陽花の葉が、ふわり、ふわりと揺れている。

「うわのそらだネ」

カプ、と鼻先を齧られて、我に返る。
至近距離の長い睫が、どこか面白がっているように瞬く。

「考えごと?めずらしいこともあるんだね、明日は大雪かな」

するりと肌をすべった指先が、むにっとオレの両頬を抓む。

「ふゃんかふゃえにも」
「んー?」
「ふゃっふゃっふぇふぁひょ」
「んー」

わかんない、と首をかしげた先生が、頬を抓んだ指をぱっと離す。
ぎゅうーっと引っ張られたせいでヒリヒリと微かな痛みの残ったところを、夜風がさわりと撫でていく。

「なんかさ、こんなことが前にもあったってばよ?夏みたいな夜で、風が涼しくて、せんせーの手がひやっとしてて、紫陽花の葉っぱの影がわさわさしてんの」

心をよぎったもやもやをそのまま口にしたら、首をかしげたままで聞いていた先生が、ちょっと目を眇めて悪戯っぽい笑みを作る。

「あのねえ、俺があの鉢植え買ってきたのは先週末だし、オマエがここに入り浸るようになったのは、この冬からだよ。それ、前に付き合ってた女の子か何かと勘違いしているんじゃなーいの?」

やーねーナルくんたらサイテー、とわざとらしい裏声で口を尖らせてみせた先生が、ぴこん、とオレの鼻先を指で弾く。

あれ、ホントだ。
まだ梅雨にも入っていないのにこんな真夏みたいになっちゃった夜を、先生と一緒に過ごすのはこれが初めてのはずだ。
でも、だけど。

「オレは先生と他の誰かの気配を間違えたりなんかしねえよ。ぜったいあれはカカシ先生の手だったってば」

細くてしなやかで、でもオレの頬をすっぽり包む長く骨ばった指の感触を、女の子のほわほわしたちいさな手となんか間違えるわけはない。
いつだって体温がひんやりと低くて、唇を撫でるようになぞっていく親指の、いくつもの古傷で硬くなった皮膚の…。

反射的に先生の右手を引き寄せて、親指に触れてみる。
傷ひとつない指先は、さらりとしていて引っかかりなんてひとつもない。
念のために左手も確かめてみるけれど、ピアニストのように器用そうな指の皮膚は、体のほかの部分と同じように滑らかで綺麗だ。

「先生、最近親指怪我したことある?」
「記憶にある限り、ここ数年そんなとこ怪我したことはないなー」

よく指を怪我するようなコと付き合ってたんだ?料理作ってもらってたとかかな、初々しいねーえ、と先生が揶揄ってくる。

「違げえよ、夏みたいな夜だったけど、あれは絶対カカシ先生で、手がひんやしてて傷跡の皮膚が硬くなってて、月が光ってて紫陽花がふわふわしてたの!」
「なにそれ。あ、まさか『これは前世の記憶だ、俺達は運命の出逢いなんだ』とか言うつもり?」

そういえば最近そんなドラマがやってたもんねえ、と、へらへら笑う先生の両手をガシッと掴む。

「それだ!」
「は?」
「前世だってば、オレ前世でカカシ先生に会ってたんだよ。そうだ、オレ…っ」

先生の両手を握りしめ、まっすぐに目を見つめながら告げる。

「オレ、前世は先生に飼われてた犬だったかも!」

まん丸な目を瞬いてオレを見返したカカシ先生が、堪りかねたようにぷっと吹き出す。

「犬って、オマエね…」
「だって覚えがあるってばよ!こうやって見上げたり頭とかグシャグシャ撫でられたり…」

鼻とかくっ付けたりもしてたかも、と言いながら、薄闇にほんのり浮かんだ白い頬を両掌で挟んで、冷たい鼻先をすり合わせる。

「あのねー、それ、女の子には言わないほうがいいとおもうよー、前世でキミのペットでしたなんて」
「女の子になんて言うわけねえってばよ!」
「口説き文句ならもう少しロマンチックじゃないと女の子は落とせないよー。せめて前世までで止めておくべきじゃないの」
「だから女の子なんてどうでもいいの!せんせーはどうなんだよ?」
「んー?」

可笑しそうに笑い続ける先生の瞳を無理矢理覗き込んで、真剣に尋ねる。

「せんせーは、オレの前世が犬だったら、飼ってくれるってば?」

驚いたように一瞬すべての表情を消した先生が、ややあってポソッと答える。

「やだ」
「ええ!なんで?!」
「だってオマエが犬ならきっと、躾の出来てない大型犬デショ?ゴールデンレトリバーとかの、やたらと力強くて重くてジャレついてくるやつ」

俺、最初に飼うならパグがいいんだよね、ちっちゃくて賢いの、とのほほんと先生が嘯く。

「じゃあ、二番目でもいいってば、二匹目はデカくて可愛いオレな!」
「うーん、デカいのだったらブルドックかなあ。ドンッて重心低くて安定感のあるやつっていいよねえ」
「じ、じゃあ三匹目!」

しつこく食いさがったら、先生が煩そうに眉を顰める。

「どうしてそんなに犬がいいの?」
「え、う、わ…っ!」

グイッとオレのTシャツを掴んだ先生が、乱暴にオレを引っぱって唇を合わせる。
すぐさま侵入してきた舌がくちりと絡む。
濡れた感触が甘い電流のように鳩尾まで駆け巡り、本能のまま夢中になってその舌を追いかける。
もっともっと密着したくて、後頭部に手を伸ばして引き寄せようとしたら、トンッと軽く突き放される。

「ちょ、せんせ」
「俺は犬とはこういうことしないけど?」

それでもやっぱり人間じゃなくて犬がいいの、と、手の甲で唾液に塗れた口を拭う先生が壮絶に色っぽくて、反射的にその濡れた手を掴んでガバッと押し倒す。
細い腰を両膝で挟むように跨ったまま、発光しているかのような仄白い顔を見下ろしたら、シーツに押し付けられた先生が、はははっと笑う。

「なに?」
「あはは、だって、こうやって見ると本当に図体のデカいゴールデンにのし掛かられてるみたいだから。毛並みも金色だねえ」
「人間のほうがいいって言ったのは先生だろ!?」
「人間のほうがいいとは言ってないよー。オマエが犬になりたかったんでしょー」
「犬になりたかったわけじゃねえってば!」

握りしめた細くひんやりとした手首に、オレの熱が伝わっていく。
くしゃくしゃの前髪の間から覗いている、わずかな光を反射する瞳の綺麗な煌めきに、あったはずのない過去の記憶なんかどうでもよくなってくる。
掴んでいた手首を離して、かわりに指と指を絡めあう。
どうでもいい。
そうだ、大事なのは、今だ。

「じゃあオレは、犬にはできないこといっぱいやって、人間だって証明してやるってば」
「…お手柔らかにネ」

まだクックッと楽しげに喉を震わせている先生の笑い声を、丸ごと飲み込むように口付ける。
しっかりと握り返してくれる絡めあった細い指の感触に、ああオレはヒトに生まれて来れてよかった、とおもいながら。

「出会えたのは緑」#4
(20130530)

→#5




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