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[1]カカシ先生が妊娠した。
現在五週目だという。
ついでに新居に引っ越したから遊びにおいで、という一報を受け取って、むううと唸る。
なんだそれ。
下忍のころからの付き合いだからか、カカシ先生はなにかにつけてオレをコドモ扱いしてからかう。
いまだ会うたびに、ラーメンばっかり食べてちゃダメだよ野菜もちゃんと食べないとせっかく伸びた身長が縮むよ、なんて言ってくる。
しょうもないジョークが好きなオッサンなんだってのは、十分にわかってる。
だけどさすがに妊娠はないだろう。
ちょっとオレをバカにしすぎじゃねえの?
ムカムカしながら山中花へ行って、ちいさなピンク色の花束を買う。
ついでにコウノトリがベビーをはこんでいるカードを選んで『せんせいニンシンおめでとう、元気なあかちゃんをうんでね!』とでっかく書く。
花束のあいだにカードを差し込んで、よしと準備を整える。
それから先生がくれた地図に記された新居とやらに向かって、ずんずんと大股で歩いていった。
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里の中心部からはずいぶんと離れた人気のまったくない森のなかに、その一軒家は建っていた。
ぐるりと周囲をとりかこんだ黒板塀は、長年の風雨にさらされて、色褪せささくれだっている。
押しあけた門扉は蝶番が錆びきって、キイィと耳障りにきしむ。
年代ものの呼び鈴を押すと、ピイインポオオンという気の抜けた音が響き、やがて玄関のドアが開く。
「いらっしゃい、ナルト。よく来たね」
にこりと微笑むカカシ先生は、足首までもの長さがある生成のシャツを身につけていた。
ワンピース、というよりは、砂漠の民族衣装のようだ。
腹の大きさはまったく目立たない、ってあたりまえだ、本当に膨らんでいてたまるかってばよ!
「せんせー、ニンシンおめでとう!」
ずいと挑むように花束を差し出す。
ちょっと目を細めた先生が、ありがと、と受け取る。
まあ上がってよ、と室内を指し示されて、三和土で靴を脱ぐ。
キシキシと鳴る薄暗い廊下を通ったさきは、陽光が差しこむ居間だった。
窓枠に斜めに掛かるすだれが、おだやかな日陰をつくっている。
縁側には朝顔のツルが巻きついた植木鉢が五つ。
その向こうがわには、昨日までの雨で伸び放題に育った雑草だらけのちいさな庭がある。
でも部屋のなかはがらんとしていた。
古びたソファと籐の椅子がひとつずつ、あとは低いテーブルがあるだけで、テレビもない。
赤い表紙の難しそうな本が一冊、テーブルの隅に伏せ置かれている。
いちど台所へ引き返した先生が、お盆にグラスを三つのせて戻ってくる。
冷たい麦茶の入った二つのグラスをテーブルの上に置き、三つ目の少し大きめのグラスに、オレが持ってきた花束を挿す。
花のあいだに挟んであったコウノトリの絵が描かれたカードを、嬉しそうに眺めながら。
「いま五週目ってことは、出産予定日は四月か?」
先生のジョークの尻尾をつかむために、まずは軽くジャブをいれる。
オレはもう先生の悪ふざけに引っかかるほどガキじゃないんだって、このさいキッチリ解らせてやるってばよ!
「十月十日っていうよな」
「あれ、ナルトそんな言葉よく知ってたね」
「知ってるってばよ、ガキ扱いすんなって!」
「してないよー」
先生がやわらかく笑って、カードを花束の横に立てかける。
「シカマルが前に言ってたってば」
「ああ…。アスマの、あのときかな」
先生が籐の椅子に腰をおろす。
ゆるやかに座面が揺れる。
ロッキングチェアなのか、あれ。
「実際はねえ、妊娠月は四週間をひと月と数えるから、九か月間とちょっとなんだよー」
「んじゃあ予定日は三月?」
先生がもたれかかった椅子を、ゆらりゆらりと揺らす。
「俺の場合はちょっと特殊だから六か月間なの。まあ、十二月の半ばだねえ」
のほほんと答える先生にイラっとする。
ちょっと特殊じゃねえだろ、男が妊娠したらむちゃくちゃ特殊だってばよ!
「そもそも父親は誰なんだよ!」
「ん?ヤマトよ」
「ええ!隊長ー!?」
一瞬のあいだにヤマト隊長とカカシ先生のあれやこれやが脳内をめぐる。
「なに想像してんの?やらしー」
「っ!やらしーじゃねえだろ!」
「あ、ヨダレが垂れてる」
「うそっ!」
「ウソ」
「なあにいぃ!」
ハハハッと、めずらしく声をあげて先生が笑う。
つい手の甲でゴシゴシと口元をぬぐってしまってから、慌てて話に戻る。
「じゃあそのヤマト隊長はどこにいるんだよ!」
「あいつ、いま長期任務中なのよ」
「長期っていつまで?」
「…十二月になったら、なんとかカタがつくかな」
「予定月と一緒じゃん」
「そうだねーえ」
ひょいと腕を伸ばした先生が、麦茶のグラスを手に取る。
長袖のシャツの袖口から、ちらりと細い手首が覗く。
「ヤマト隊長は知ってんの?先生が…その…」
「知らないよー内緒にして驚かせるのー」
そりゃ驚くだろうってばよ、と内心で盛大にツッコむ。
長期任務に出てるあいだにいつのまにか「自分のコドモ」が産まれてたら、男だったら絶対誰でも引くっつの。
しかも産んだのがカカシ先生とか、もうマジありえねえし!
先生ってば、たまたまヤマト隊長が長期任務で十二月まで留守だったから「父親」ってことにしてるんだよな。
っつかこのジョーク、いったいどこまで続ける気なんだよ!
先生の悪ふざけのアラを見つけようと一生懸命に頭をひねっていたら、すこし俯き加減に麦茶を啜っていた先生が、カタリとグラスを置く。
「今日は暑いね…お茶のおかわり持ってくるよ」
すいと立ち上がって、足音さえも立てずに台所へ向かう。
そういえばさっき廊下を歩いたときも先生だけは足音たててなかったな、さすが忍者だってばよ、と感心していたら、台所のほうからカチャン、となにかがぶつかるような音がした。
たいして大きな音ではなかった。
だけどそれがなぜだかひどく気になって、先生のあとを追いかける。
「せんせ?」
台所を覗き込んだら、先生が身体をふたつに折るようにしてシンクに屈みこんでいた。
「ちょ、せんせ!大丈夫?」
あわてて先生に駆け寄って肩に手を触れたら、先生がビクリと震えた。
「悪い…ちょっと待ってて…」
「待っててじゃねえってばよ!」
苦しげに呻く先生の背をさする。
胃液の匂いが鼻につく。
先生の背中がときおりビクビクと痙攣する。
しばらく背中をさすり続け、ようやく吐き気がおさまった先生を台所の椅子に座らせる。
シンクを洗い流し、手近にあったタオルを濡らして先生にわたす。
「…ゴメンね、ナルト」
「いいってばよ」
なんでもないそぶりで答えつつも、先生のかすれた声に不安が募る。
どんなに暑くても汗なんてかかない先生の、シャツの背がじわりと湿っていたことにも。
「これってもしかしてツワリってやつ?」
考えたことが、つい口をついて出た。
馬鹿げたことを訊いている、と頭のどこかでおもう。
男が妊娠するわけがないし、悪阻があるはずだってない。
風邪のせいで気持ち悪かったとか、いや先生が風邪なんかひくもんか。
二日酔い…なわけないな、ぜんぜん酒臭くねえし。
「ん…そうなんだろうねえ」
ぐるぐると考えるオレに気づいているのかいないのか、タオルに顔をうずめた先生がくぐもった声で答える。
「悪阻っていうのは、身体が胎児を異物とみなしているからおこる免疫不全現象なんだって……っていうのも、知ってた?」
首を横に振るオレをタオルの隙間からちらりと見た先生が、すこしだけ目を細めてからコツンと頭を椅子の背にもたせ掛ける。
顔にタオルを乗せたまま、先生がゆっくりと息を吐く。
そういえば先生は口布をしていなかった、というのを今になって気づく。
もう何年も前に先生の素顔の秘密は暴いていた―というか、オレが上忍になったときにあっさり見せてくれたんだけど―から、見たことがないわけでもなかったというのに、椅子の背に頭をもたせ掛けているせいであらわになった先生の喉元は、ひどく無防備で胸がざわめいた。
ヤマト隊長は、この首筋に触れるんだろうか。
いやまてそれはジョークだろ。
でもジョークで吐くのか。
だけど先生は男だし…。
「ねえ、ナルトに、お願いがあるんだけど」
ぼんやりと天井を見上げたまま、先生がポツンという。
「なんだってばよ」
つい目がいってしまう先生の喉から無理やり視線を引き剥がして、わざとぶっきらぼうに答える。
もたれかかっていた椅子からだるそうに身体を起こした先生が、濡れたタオルのせいで額に貼りついた髪をモソモソと掻きあげる。
「俺こんなんだからさ…あんまり外とか出られなくって。たまにでいいから、買い物とか頼めないかな」
手にしたタオルを玩びながら、先生がポツリポツリと言葉をつなぐ。
無造作に跳ねた前髪のあいだからのぞく長い睫がかすかに揺れるのに、また胸がざわめくのを感じる。
「………いいよ」
気がついたら、そう口にしていた。
からかわれているのかもしれない。
騙されているのかもしれない。
でも、それでもいいとおもった。
なぜだか知らないけれど、先生が本当にオレの手助けを必要としているということだけは、分かった気がしたから。
伏せていた瞳を上げた先生が、ありがとう、と呟いたとたんに、窓の外でジジッとおおきな音がした。
つづけてジジーッ、ジジーッと鳴き声が響きだす。
蝉だ。
今年はじめての、蝉の声だ。
窓の外に視線を投げた先生が、ああ梅雨が明けたみたいだねと呟いて、眩しそうに幾度か目を瞬いた。
(20100704)
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