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「なにこのラーメンの山…おまえはいたいけな妊婦にナニを食べさせるつもりなの?」

オレが汗だくになって運んできたスーパーの袋を覗きこんだ先生が、呆れた声をあげる。
誰がいたいけな妊婦だっつーの。

「先生に頼まれてた買い物は、こっち!それはオレの小腹が空いたとき用!」
「おまえの小腹はいったいどれだけの容量があるのヨ…」

買物袋からはみ出した濃厚トンコツラーメン増量1.5倍カップを、先生がまるで異世界の物体かのように眺める。

「見てるだけで気持ち悪くなるな…」
「あ、吐く?」
「吐かないヨ」
「んじゃオレさっそく一個食おーっと!買物行ったら腹減っちまったよ!」
「……俺、向こうに行ってる」

はあ、と溜息をつきながら台所を出て行くカカシ先生は、今日も足首までの丈長シャツを着ていた。
すこし褪せたような紺色の布地は肌触りがよさそうだけれど、細身の先生をいっそう細く見せている。

ヤカンに水を入れてコンロにかけながら、買ってきた食料を適当に冷蔵庫や戸棚にしまう。
米、味噌、卵、牛乳…。
先生に手渡された買物リストに書かれていたのは普通すぎるほどに普通の食品と生活雑貨だったが、こんなので本当にいいんだろうか。
なにかもっと栄養のつくものとか、いらないのかな。
いや、先生が妊婦だからってワケじゃない。
オレはべつにそこまで信じてはいないぞ。
だけど先生がけっこう頻繁に吐いているのは知っている。
心なしか、顎のラインがとがってきているようにも見える。

妊娠じゃないなら、なにかの病気なんだろうか。
任務も休んでいるようだ。
聞けばきっと産休だとでも言うのだろうけれど。

ゴトゴトとヤカンが音を立てはじめる。
首にかけたタオルで汗をぬぐってから、カップラーメンの包装をあけて、湯を注ぐ。
外では蝉がジイジイ鳴いている。

+++

「なーせんせー……あれ?」

居間をのぞいたら、カカシ先生はいなかった。
網戸にした窓の向こう側には、すでに夏らしさ全開の強い日差しが、誰もいない小さな庭を照らしだしている。

「おーい、せんせー!」
「こっちー」

持ってきたトレイをとりあえず机の上に置き、間伸びした声が答えるほうへと廊下を引き返す。
古めかしいノブを回してドアを開けると、そこは書斎だった。
いや、かつては書斎と呼ばれるようなところだった、というべきなのかもしれない。
壁際に、肩くらいまでの高さの本棚がある。
そしてその棚を埋め尽くし、さらにあふれ出した大量の本と巻物が、部屋中の床に積みあげられている。
天井に取り付けられた扇風機が、ときおりガタガタと音を立てながら室内に生ぬるい風を送っている。

「うわー散らかってんなー」
「おまえにそういうこと言われちゃうのって、かなりのショックだよねえ」
「どういう意味だよ!」

ふふと笑った先生が、手にしていた本をぱたりと閉じて片隅の机の上に置く。
その机の上も、積みあげられた本でいっぱいだ。

「なんでこんなにたくさんの本…せんせ、古本屋にでもなんの?」
「そういうのもいいねえ。でも俺に商売は無理だなーあ」

床の本の山から一冊、二冊と拾いあげて、ぱらぱらとページをめくって、また机の上に積みあげる。

「時間ができたら読もうとおもってた本が、けっこう溜まっててね。ちょうどいい機会だから読んでおこうとおもって」
「げ、これ全部読むの?!」
「いや、半分くらいはもう読んだ本だよー」

残り半分にしたって、すごい量だ。
ためしに手近な本を一冊開いてみるが、字がいっぱい過ぎてクラクラしてくる。

「うえぇ、こんなのよく読む気になるな…」
「ああ、そっちは読まなくていいよ。おまえが読むのは、こっち」
「へ?」

机の上に積まれた本の一山の上にさらに巻物を3本ほど載せたところを、先生がポンポンとたたく。

「兵法書だよ。せっかくここまで来るんだから、ついでに勉強していきなさい。わかんなかったら教えてあげるから」
「へーえ、ほーう」
「そんな阿呆な相槌が打てるってことは、兵法がなにかくらいは知ってるのね?」
「アカデミーでなんか習ったってば…けど、ヤダ!オレ、無理!」
「無理じゃないでしょ」
「ムリムリムリムリ!イルカせんせーもオレに教えるのは諦めてたもん。無理!」

零点のしたにバカモノ追試!と朱書きされたテスト用紙が脳裏に浮かぶ。
確かオレの最高得点は九点だった。
十点満点テストじゃないんだぞ、とイルカ先生が嘆いていたのがまざまざとおもいだされる。

「そんなこといって、おまえは火影になるんでしょうが。火影が兵法知らなくてどうするのよ」
「そういうのはシカマルが考えるからいいってばよ」
「シカマル君が砂にお嫁にでもいったらどうするのよ」

一瞬、ウェディングドレス姿のシカマルをおもいうかべて、うげえ、と呻る。

「シカマルは嫁になんかいかねえよ!」
「あまちがえた、婿だった」
「わざとだろ?!あいつべつに我愛羅のねーちゃんと付き合ってるわけじゃねえっていってたぞ!」
「そう?仲よさそうに歩いてるとこ見たことあるけど」
「単にこき使われてたんじゃねえ?」
「まあそれはあるかもしれない」

ついこき使いたくなるタイプだもんねえシカマル君は、と嘯く先生の姿に、ああカカシ先生もシカマルをこき使ってたんだなと妙な確信をいだく。

「だけど、いつもシカマル君が一緒にいてくれるわけじゃないでしょ」
「そしたらカカシせんせーに訊くからいいってばよ」
「俺だっていつまでもおまえの面倒みてられないんだからね」

本の山をかかえあげた先生が、ドン、とオレに押し付ける。

「おまえが後先考えずに突っこんでばかりいくから、俺は心配でおちおち産休もとってられないのよ」
「やっぱ産休…って、重い!」
「重くない!たかが十二冊と三巻!」
「げー…ぜったい無理…ぜったい読めねえって…」

分厚い本と巻物をかかえてよろめくオレを鼻で笑った先生が、ほんのわずかに眉をひそめる。

「とりあえず、これ居間に持っていって。俺、手洗ってくるから」
「あ、吐くの?」
「……そーゆーの、いちいち訊かないでくれる?」

むすっとした表情でオレの横をすりぬけていくカカシ先生の、旋毛を見おくる。
そういえば、先生の身長を追い抜いたのはいつだっただろう。
子どものころに見あげていたときにはすごくすごく大きなひとに見えたのに、今ではむしろ先生は身長のわりに華奢だとおもう。
そしてやっぱりちょっと、痩せたんじゃないだろうか。
項にかかる無造作すぎる髪のあいだから、首付根の骨の形が、はっきりと見て取れた。

+++

居間のテーブルの端にどさりと本を積んだら、勢いがよすぎて山が崩れた。
床に散らばった本と巻物をうんざりしながら見下ろして、しかたなく拾い集める。
買出し行かされたうえに、なんで勉強までしなきゃなんねえんだ。
ぶつぶつ言いながら拾い上げた本を開いてみる。
もうタイトルからして、読めない。
ぱらぱらページを捲っていくと所々に図が載っていて、それが地形図および配陣図だというのはわかる。
何年か前の任務のときとまったく同じ地形、配陣があって、そういえばあのときチームリーダーが『セオリー通りに攻める』とかって言ってたなあ、とおもいだす。
でも文字のところは見ているだけで頭が痛い。
二行読んだだけでげんなりして、ごろりとソファに寝転がる。
ジイジイ、ジワジワと蝉の合唱が聞こえる。
縁側には、萎みかけた花弁と尖ったねじのような蕾をいっぱいにつけた鉢植えの朝顔が、ときおり吹きこむ風に揺れている。

「どう、わかりそう?」

顔の上に伏せた本が持ち上げられて、かわりに先生の目がオレを覗き込む。
額宛をしていないのに片目だけつぶってられるって器用だよなあ、と妙な感心をしながら、青灰色のほうの眼にむかってきっぱりと首を振る。

「カケラも分かる気がしないってばよ」
「最初から諦めてたらダメでしょ。ちゃんと取り組めばすっきり分かってくるんじゃなーいの」
「先生、吐いてスッキリした?」
「そんなことはどうでもいいでしょ」
「あのさーオレ質問があるんだけどさー」
「なにヨ」
「グレープフルーツって、いろんな種類があるの?」
「………は?」

訝しげに眇められる先生の右眼を見上げつつ、ソファから身体をおこす。

「昔さ、任務で行っただろ、グレープフルーツの収穫。そんで収穫したヤツ食わせてもらったじゃねえ?オレむちゃくちゃいっぱい食ってサクラちゃんに『あんたは妊婦か!』って叱られてさー」
「ああ…なんかそんなこともあったかな」

それがどうしたという顔をした先生の脇をすり抜けるように、テーブルへ手を伸ばす。

「あの時って、半分に切ったグレープフルーツをスプーンですくって食べたよな?だけどさっき切ったやつ、なんか変な切り口にしかならなくて、スプーン刺せねえってば…」

巻物と本の山に埋もれそうになっていたトレイを引っ張り出す。
スーパーで売っているのをみて、つい衝動的に買ってきてしまったグレープフルーツ。
まだDランク任務ばかりをこなしていたころの記憶を頼りに、半分に切ってガラスの皿にのせてスプーンまで添えてみたというのに、しかし記憶のなかの姿とはちょっと違う。
グレープフルーツの中心から外へ、十二個ほどの三角形に区切られた薄皮のあいだの果肉をギザギザがついたスプーンで削ぎとるようにすくって食べたはずなのに、オレが切ったグレープフルーツの断面には半月形がふたつ並んでいるだけだ。
片側の半月にはうっすらと果肉が覗いているが、もう片側は全面に薄皮が張っている。
これじゃスプーンですくえない。

「なんかヘンなんだよなースーパーに売ってたのはこれ一種類だけだったんだけどなー」
「……俺はいま、やっぱりおまえに兵法は無理だったかもしれないとしみじみおもった」

はああ、と溜息をつきながら先生がオレの隣に腰掛ける。

「おまえはグレープフルーツを縦切りにしたんだよ。スプーンですくって食べたいなら輪切りにしなきゃ」
「んー…?」

よく分からずに考え込んでいたら、先生が苦笑しながらグレープフルーツの半球を手に取る。

「ま、これでも食べれるよ」

すいすいと厚い黄皮をむいた先生が、器用に薄皮も取りのぞいて金色の果肉だけを口に入れる。

「ん、おいしいね」

もぐもぐと咀嚼しながらもうひとつ薄皮をむき、その果肉を前触れもなくオレの口のなかに放り込む。

「な…っ!」
「おいしい?」

先生の濡れた指先が、オレの唇にかすかに触れていく。

「もっと食べる?はい、あーん」
「ばっ…、自分でやるってばよ!」

わけもなくうろたえて、トレイの上に残ったもう半分のグレープフルーツを掴む。
厚皮をむいて、薄皮もむこうとするけれども先生のようにうまくはできなくて、面倒になって皮ごと口のなかに放り込む。
噛み切れない薄皮を飲み込むようにむしゃむしゃ貪り食っていくのに、なぜか、唇に触れた先生の指の感触が、いつまでも、消えない。

手を果汁でベタベタにしながら口いっぱいにグレープフルーツを頬張ったオレをおかしそうに眺めていた先生が、ほんのすこしだけ目を細めて、ありがとねナルト、と呟いた。

(20100712)

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