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[3]蝉の大合唱がジャグジャグと鳴いている。
身体からは汗がだらだらと噴きだす。
扇風機がブーンと呻りをあげながら生暖かい風を送ってくるけれど、窓際の風鈴はだらりと垂れ下がったままでさっきからいちども鳴らない。
セミはジャグジャグと鳴いている。
Tシャツの袖口で汗をぬぐい、重いまぶたを引きあげようとしてみるのに、ジャグジャグジャグジャグという響きはだんだんと頭のなかを埋め尽くし、やがてオレの意識を奪って…
「寝・る・な」
ひゅん、と飛んできた黄色い球が顔面に直撃する寸前に、かろうじてキャッチする。
「あっぶね…せんせー食いモン投げちゃいけねえんだぞ」
「ん?クナイのほうがよかった?」
にっこり笑って答えるカカシ先生は、たぶん本気でクナイも投げつけてくれることだろう。
あああと溜息をつきながら、手のなかのグレープフルーツをテーブルに置かれた籠にもどす。
このあいだオレがスーパーで選んできた果物を、先生はすごく気に入ったみたいだ。
あれ以来、買物リストにはかならず「グレープフルーツ」と書いてあって、オレはすこし甘酸っぱい気持ちになる。
「おまえさっきから一頁も進んでないじゃない。居眠りしてないで読みなさい」
「だってよーこんな暑かったら本なんか読めねえって…せんせクーラーつけてよ」
「やだ」
「やだ、ってさ…気温30度とっくに超えてるってばよ」
「クーラー嫌いだもん。それに冷えは妊婦の大敵なのよー」
誰が妊婦だ。
しらっと嘯くカカシ先生は、いつも通りの丈長シャツを着ている。
淡いベージュの生地は麻なのだろうか、長袖なのに汗をかくそぶりも見せずに平然とした顔をしている。
オレはTシャツ一枚で汗だくだというのに。
「だあああ暑ちぃ…もうダメだ…あ、そうだオレ今日任務があるんだった、そろそろ行かなきゃ!」
「夜からだって言ってたじゃない。まだ日暮れまでたっぷり時間あるでしょ。兵法書の一冊ぐらい読める!」
「や、任務時間早まるかもしれないって言ってたし…」
「そしたら伝令鳥がくるでしょ。逃げるんじゃないヨ」
「だあってさあ…」
文字ちっちゃいし、漢字ばっかだし、意味わかんねえし…とゴネていたら、ピイインポオオンと玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、ほら、任務呼び出しが来たってばよ!」
「伝令鳥がドアチャイム押すわけないでしょ」
呆れた顔で籐椅子から立ちあがりつつ、先生が眉を寄せる。
「誰だろ…おまえ、俺がここに住んでること他人に言ってないよね?」
「言ってねえよ…先生が誰にもいうなって言ったんじゃねえか」
恥ずかしいからみんなには内緒ネ、なんてわざとらしく小首をかしげたりなんかされたら、もう意地でも誰にも言うもんかという気持ちになるっての。
だいたい「カカシ先生が妊娠して…」なんて言葉にしたとたんにオレはみんなの笑いものだ!
ぶつくさ呟きながらも分厚い兵法書はさっさと閉じてテーブルの上に押しやり、先生のあとに続いて玄関へ向かう。
廊下の先で足をとめたカカシ先生は、なんだか嫌そうな顔で玄関扉を見つめてから、溜息混じりに錠をあける。
「紅」
「こんにちは」
扉が開いたとたんに、やわらかな百合の香がした。
白く揺らいでみえるほどの夏の日差しの中で、日傘の影にたたずむ紅先生が涼やかに微笑む。
「なんでおまえがここに来るのよ」
「あら、ごあいさつね」
「綱手さまが…?」
「正解。あいかわらず吐いてばかりいるようだから、見てくるように、って…まあ、ナルト」
「あ、ひさしぶりってばよ」
片手をあげたオレを見上げた紅先生が、日傘を閉じながらおもしろそうにカカシ先生を振り返る。
「絶対ひとり寂しく引きこもってるとおもったのに、意外だわ」
「買物とかいけないんだから、手伝ってくれるひとがいないと仕方ないでしょ」
「八匹も忍犬がいるじゃない。なのにこのコがよかったのね」
オレにむかってにっこりと笑む紅先生の瞳は、虹彩が不思議に赤みを帯びた色をしている。
じっと見つめられているとなんだか居心地が悪くなってきて、わけもなくTシャツの裾を引っ張ってみる。
「なにしに来たのよ…俺はおまえのカウンセリングなんていらないよ」
「そうねえ。写輪眼のカカシにカウンセリングなんて必要ないわよねえ」
「イヤミなやつ…もうこれ使い物にならないの知ってるくせに」
顔をしかめたまま左眼を覆うように手を当てるカカシ先生の姿に、おもわず声をあげる。
「え?それってホントだったの?」
「おまえも噂にきいてたでしょ…ホントだよ」
すこしまえから、いろいろなところでいろいろなひとたちが話していた。
はたけカカシはもう写輪眼を使えない。
酷使しすぎたから限界がきたのだ、だからこのところ滅多に任務に出ることもなくなったのだ、と。
ただの噂だとおもっていたのに。
「そうよー、日ごろのうらみを晴らすならいまがチャンスよー。写輪眼の使えないカカシなんて怖くないわよー」
紅先生があまりに楽しそうに茶々をいれるのに、ムッとなって身を乗りだす。
「なにいってんだよ、カカシせんせーは写輪眼なんてなくたってすっげえ強い忍なんだぞ。体術だってすげーし、頭だっていいし!」
しん、と一瞬の沈黙が落ちたとおもったら、紅先生がたまりかねたようにふふっと噴きだす。
「あらあら…」
「……おまえ、そーゆーこと真顔で言うのヤメてくんない?」
「なんでだよ!」
おもしろくてしかたないといった顔で紅先生が笑い続ける横で、カカシ先生が頭を抱える。
「ごめんなさい、ナルト。そうね、あなたの先生は写輪眼なんてなくても強い忍よね。これお詫びにあげるわ。冷えたの買ってきたから、すぐ食べられるわよ。切ってきてくれるかしら?」
紅先生が、手に提げていたスイカを差し出す。
小ぶりではあるけれど鮮やかな緑にくっきりと黒い縞が入ったスイカは、抱えあげるとひんやり冷たさが伝わってきた。
「……スイカも妊婦の食べもんなの?」
「え?」
「あ、や、その…」
「妊婦…ああ、たしかに身重だわねアレは…」
紅先生が、眇めた眼でカカシ先生を見やる。
「さっぱりしてるから、食べやすいんじゃないかしら妊婦さんにも。ねえ?」
「……食べるから、切ってきて」
嫌そうな顔で紅先生の視線を受け止めつつ、カカシ先生がぶっきらぼうに答える。
「わかったってばよ……あ、スイカは、縦切り?横切り?」
「スイカはどっちでもいいのヨ」
溜息まじりのカカシ先生の答えにうなずいて、台所へ向かう。
可愛いわねえ、と紅先生がたのしげに呟く声がする。
+++
縦に切ろうか横に切ろうかしばらく悩んだ末に、縦と横に切って四等分にしたスイカを、大皿に載せて居間へはこぶ。
いつもカカシ先生が腰掛けている籐椅子には、紅先生がもたれていた。
涼しそうな白いワンピースの裾から覗いたちいさめの爪先に赤いマニキュアが塗ってあって、ああ女の人だなあ、とあたりまえすぎる感想をいだく。
「カカシ先生は?」
「お手洗いじゃないかしら」
「また吐いてんのか…」
テーブルに大皿を載せてソファに腰を下ろし、どーぞ、といいつつ自分が真っ先に一切れ持ち上げる。
ガブリとかぶりついたら、甘い夏の味が口のなかに広がった。
ガブリ、ともうひとくち。
口のなかに残った種のやり場に困って、縁側まで移動してブブッと庭に種を吐き出す。
大胆な切り方ねえ、と大皿を眺めていた紅先生も、四分の一切れを持ち上げて縁側に腰掛け、オレの隣でスイカにかぶりつく。
プッと躊躇なく庭へ吐き出したスイカの種がオレよりずっと遠くまで飛んで、無性に悔しくなる。
「なあ、カカシ先生は、なんかの病気なのか?」
ブッと遠くをめがけて種を吐き出しつつ、訊ねる。
種は庭の真ん中あたりに落ちる。
「あら、カカシは妊娠中だっていったんでしょ。信じてないの?」
「信じるかよ。せんせ男だぞ」
プッと紅先生が吐き出す種が、塀の手前まで飛ぶ。
種の飛距離もすごいが、白いワンピースに果汁を一滴もこぼさずにたべているのもすごいんだと気づく。
オレのTシャツはすでに赤いシミが点々と付いている。
「そうねえ…でもまあ、そんなかんじのものよ」
「…んだよ、それ」
「訊きたいなら、私じゃなくてカカシに訊けば?」
塀の向こうを狙って吐き出したつもりの種がなぜかTシャツの腹の上に落ちて、ムカつきながらつまんで投げ捨てる。
「もしかして、手術とかもすんの?」
「まあ、男に産道はないから、産むなら帝王切開ね」
「いや…あのさ…」
「だいじょうぶよ、最近の統計では出産件数の約20%が帝王切開よ。五、六人にひとりの割合でやってることなんだから、心配することじゃないわ」
「や…だからさ…」
「ましてや執刀するのが綱手さまなら、たとえ成功確率が1%しかなくたって技術的には問題じゃないのよ。問題なのはむしろ被術者の心ね」
「へ?」
「成功させようという意志が被術者になければ、成功確率はさがるわね。こればかりは技術ではどうにもできない」
紅先生が飛ばした種が、庭を取り囲んだ黒板塀に当たって、跳ね返って落ちる。
落ちた種は塀に沿うようにはえた雑草のなかに紛れこむ。
「……ナルトは、生きていくのを怖いとおもったこと、ある?」
ポツリと紅先生が尋ねる。
「なんだそれ?死ぬのが怖いかどうかじゃなくて?」
曖昧な笑みを浮かべたまま、紅先生が首を振る。
「種子だけを守ったらそれで役目は果たしたなんて、おかしいわよね…水をやって、肥料をやって、毎日手を掛けていくからこそ種は芽吹いて成長するのに。種だけが大事なら、来年ここはスイカ畑だわ」
「よくわかんねえけど…紅先生スイカ育ててえの?オレいっぺん、食ったスイカの種を植木鉢に蒔いて育てたことあるぜ。ちゃんと実までなるよ…ミカンぐらいの大きさにしかならなかったけど。あれ、けっこう嬉しかった」
オレのほうを振り仰いだ紅先生が、またあの瞳でじっと見つめる。
「なんだよ?」
「ナルトは、育てるひとなのね」
「花とか、木とか?育ててるよ」
「世話するのたいへんでしょう?」
「んー?たのしいってばよ?」
「…そう」
よかった、と呟いた紅先生が、夏の日差しに照らされたちいさな庭をぼんやりと眺める。
なにが「よかった」なのかわからないまま、とりあえずスイカにかぶりつく。
ぼとりと落ちた果汁が胸元におおきなシミをつくり、面倒になってTシャツを脱ぐ。
「レディのまえでなにやってるのよ」
呆れた声音に振り返ったら、いつのまにかカカシ先生が立っていた。
「あら、レディだとおもってくれてるの」
「……前言撤回。好きなだけ脱いでいいよ。全裸になってもこいつは眉ひとつ動かさないよ」
「まあ、全部脱いでくれるの?」
「脱がねえよ!」
ブッと種を吐き出して怒鳴りかえしたところへ、ちょうどちいさな白い小鳥が舞い降りてきた。
小鳥は迷惑そうに羽ばたきと毛づくろいをしたあと、オレの顔を見あげてチチチと鳴いた。
+++
いったん家に帰って忍服に着替え、集合場所へと向かっている途中で、なじみある気配を感じた。
「サクラちゃん!」
声をあげたら、すこし先を横切っていく仮面にマントの一団のひとりがきびすを変え、こちらに向かって跳躍する…と同時に拳骨がふってきた。
「痛ってえ!」
「バカナルト!こんな格好してるんだから極秘任務中だってわかるでしょ!でっかい声で呼ばないで!」
「サクラちゃんの声のがでかいってばよ…」
殴られた頭を抱えてうずくまるオレを仁王立ちして見下ろしたサクラちゃんの怒気が、ふっとゆるむ。
「……元気そうね、ナルト」
「サクラちゃんもね」
「医療班が元気じゃなきゃ、患者は診れないのよ」
面をはずしたサクラちゃんが、背筋を伸ばしてにこりと笑う。
エメラルドグリーンの瞳はキラキラと輝いていて、宝石みたいに綺麗だ。
「そうだサクラちゃん、カカシ先生って本当に写輪眼使えなくなったの?」
「ああ…噂になってたわね」
細い指先が、肩までの長さの桃色の髪をかきあげる。
「まったく使えないってことはないのよ。ただ、使えないときがあるようになってきた、ってこと」
「なんだ、それならべつに大丈夫じゃね?」
みんな大袈裟だってばよ、と口を尖らせたら、サクラちゃんがおおきな溜息をつく。
「なにいってるのよ。あんたみたいに発動率が一割以下の術で敵に突っこんでくバカとは違うのよ。先生は生粋の戦忍なんだから。先生なら成功率が九割を切るなら、もうそれを術とは呼ばないわ」
「なにそれ、厳しすぎじゃねえ?」
「それだけ先生が請け負ってた任務は高度だし、繊細なのよ。あんたみたいな無鉄砲なののサポートもしなきゃいけないし!不安定な術じゃ対処できなくて共倒れになる危険性もあるでしょ」
先生は完璧主義者なんだから、と呟いたサクラちゃんの表情に、ほんのわずかに翳がはしる。
「それにね、先生だってもうすぐ36歳なのよ。写輪眼のことがなくたって、そろそろ第一線を退いてもいい年齢だわ」
「せんせーならべつに40でも50でも変わんないんじゃね?」
「たしかに見た目は全然変わらないけれど」
唇に指先をあてるようにしてすこし考え込んだサクラちゃんが、ちいさな子どもにいい聞かせるかのようにゆっくりと告げる。
「ねえナルト、どんなに鍛えていたとしても、どれほどの天才だったとしても、年齢を重ねればすこしずつ身体の機能は衰えてくるのよ。だけど脳の機能が衰えるのは身体よりずっと時間がかかるから、脳のほうは記憶の中にある最高時点の身体能力を判断の基準にしたまま身体に指令を出すの。だから脳ができると判断したことと実際の動作に、だんだんとズレが生じてくる。それは初めのうちはほんの一瞬のズレかもしれない。けれど戦場ではその一瞬の差さえもが自分や仲間の命取りになる可能性があるんだって、あんたも知っているでしょう?」
でも、と、だけど、で反論しようとして、でもなんと言っていいのかわからずに口をつぐむ。
カカシ先生は「衰え」なんて言葉とは無縁な気がする。
無縁だとはおもうのに、ついさっき見下ろしていたカカシ先生の、細くなった肩のラインが目に浮かぶ。
子どものころには精一杯ジャンプしないとしがみつけないほど、高く遠いところにあったのに。
「そんな顔しないで」
サクラちゃんがなだめるようにやわらかく言葉をつなぐ。
「もしこのまま先生が前線を退くことになったとしても、駄々こねたりしちゃダメよ。私たちは、先生の次の人生を応援してあげなきゃいけないんだから」
「次の人生…」
「戦忍を引退したって、できることはたくさんあるでしょ。上忍師はもう二度とやらないとはいってたけど、でもカカシ先生が執務サポートとかしてくれるなら、綱手様はすごく楽になるだろうし。いっそ忍なんて辞めちゃって、バーのマスターなんかになっちゃうっていうのもいいかも。先生は器用だから、なんだってできるわ!」
遠くで指笛が鳴って、振りかえったサクラちゃんが肩をすくめる。
じゃあまたねナルト、と笑顔をつくってから面を付けなおし、ふっと瞬身で消える。
誰もいなくなってしまった路地のどこかで、蝉が鳴いている。
先生の次の人生、というサクラちゃんの言葉を繰り返してみる。
先生は器用だからなんだってできる、という言葉も。
そのとおりだと思う。
先生にできないことなんかないに違いない。
なのになぜか、苦しげに吐きつづける先生の背中ばかりが脳裏に浮かぶ。
先生は、それで本当に大丈夫なんだろうか。
背中側から照らし出す夕陽が、足元の影を長く長く伸ばしていく。
路地にはジャクジャクジャクジャクと、ただ蝉の声ばかりが満ちあふれている。
(20100731)
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