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[5]

カナカナカナカナと蝉が鳴いている。
ヒグラシだ。
その声に重なるようにリーンリーンという涼しげな声も聞こえる。
この鳴声はなんだろう。
鈴みたいな音だから鈴虫か?
あれでも松虫っていうのもいたよな。
松虫ってどうやって鳴くんだっけ。
鈴虫がリンリンなら松虫はマツマツ?
いやそんなの聞いたことねえってばよ。
じゃあマーマーとかツーツー…いやそれもねえな…

ペラリ、とページをめくるかすかな音が虫の合唱に混ざって聴こえて、ビクリとする。
あわてて手元の本を支えなおして、おそるおそる隣をうかがう。
オレと同じように縁側に腰掛けた先生は、視線を上げることもなく分厚い本を読みふけっていて、オレは内心ほっと息を吐く。

そして手にした本にぎっしり並んだ文字を見て、深く溜息をつく。

読めといわれたって兵法書なんかちっともわかんないしおもしろくない。
だけどつい睡魔に負けてウトウトするとカカシ先生が本やらグレープフルーツやらを投げつけてくるから、うっかり昼寝もできない。
しかも今日は、いつもグレープフルーツが盛られているカゴにクナイまで入れられている。

先生なら投げる。
先生ならクナイだって遠慮なく投げつける。

無言の脅迫に恐れをなして、しかたなくまた兵法書の文字を追う。
でも読んでみたところで、やっぱり意味はよくわからない。
さわさわと風が吹いている。
虫の合唱にジイジイという鳴声が混ざりはじめる。
ジイジイって鳴くのはなんだろう…爺虫?
そんな名前の虫がいたか?
ああ夕焼けがきれいだってばよ。
雲の色がキレイに染まって…

ふう、というちいさな溜息に、またビクッとして背筋を伸ばす。
しまった、他所事考えてたのバレたか?
カカシ先生がカゴのなかのクナイに手を伸ばす。

「わ、ちょっとタンマ、読む読む、ちゃんと読むか…ら…っっ?」

手にしたクナイで、先生が前髪をザックリ切り落とす。
銀の髪がハラハラと落ちる。

「なっ、せんせ、なにやってんのっ??」
「見難いんだよ…邪魔」

無造作につかんだ髪束を、躊躇なく切り落とす。
ばらばらになった髪が縁側のふちに散らばる。
さらにもう一束。

「んな無茶苦茶な切りかたしたらギザギザだってば!」
「いいよべつに」
「うわ、ちょ、待てって!」

なおも切ろうとする先生の手首を捕まえる。
オレの顔を見あげた先生の目に、紛れもない苛立ちの色が浮かんでいて、びっくりして手を離す。
クナイを握ったままの右手が、ぱたりと膝のうえに落ちる。
先生の手首の細さが掌の感覚に刻み付けられて、いっそう動揺する。

「あー…、カカシ先生?髪切りたいなら床屋いけってば…よ?」
「行けない。俺外出できないの知ってるでしょ」
「そんじゃ、せめて鏡見てハサミで切れってば…」
「俺のアタマなんてどうだっていいじゃない。どうせ見るのなんておまえくらいだ」
「いや、だからって…」
「じゃ、ナルトが切ってよ」
「オレが…?」

固まったままのオレをしばらく見あげていた先生は、ふ、と息を吐いてまたクナイを持ちあげる。

「わーっ、わ、わかった!切ってやるってば!ハサミどこ?」
「……書斎の引き出しのなか」
「取ってくる!取ってくるから切んなよ!待ってろよ!!」

くどく念押しして大急ぎでハサミを取って戻ってくると、カカシ先生はだらりと両手を投げ出して、ぼんやりと空を眺めていた。
手にしていたクナイは見当たらない。
どこへやったのかとぐるりと見回して、庭の向こうの黒板塀に鈍く光るクナイが突き立っているのに気づく。
投げつけたのか。

「……せんせ、ハサミ取ってきた」
「うん」
「切ってやるからそのまま動くなってばよ?」
「うん」

シャツの肩先と胸元に、銀色の髪が散らばっている。
おそるおそる髪に触れると、先生がゆっくり瞼を閉じる。
見ため以上に柔らかな髪を指で梳く。

「このへん、すっげえギザギザ…先生ムチャクチャするってば…」
「そう」

『そう』じゃねえってばよとおもいつつも、目を閉じたことによって、ピリピリと尖っていた先生のチャクラがすこしやわらぐのを感じて、ほっとする。
ハサミを握りなおし、いつもいく床屋のオヤジの手つきをおもいうかべながら癖のある銀の髪をつまむ。

「……ちょっと、おまえ手震えてない?」
「キンチョーすんだってばよ…他人の髪切るのなんて初めてなんだからよ…」

深呼吸をくりかえし、おもいきっていちどチョキンとハサミを入れたら、度胸がついた。

「わかった、枝の剪定だとおもえばいいんだな」
「なによそれ…俺、盆栽かなんかってこと…?」
「盆栽って難しいんだってばよ?」
「おまえもやるの?盆栽」
「オレはそういう細かいことはやらねえけどよー」

剪定剪定とじぶんにいい聞かせながら髪を切るオレを、目を閉じたままのカカシ先生がくすくすと笑う。
そのやわらかな声に安堵して、塀に突き立ったままのクナイは見ないふりをする。
いつのまにか伸びていた前髪は目元を覆うほどで、視界の邪魔にならないように、ギザギザに短くなったところが目立たなくなるようにと、すこしずつカットしていく。
はじめてのわりには上手いんじゃないだろうか。
さすがオレ!
それに先生はもともと癖毛だから、多少歪んでいてもあまりわからない。
チョキ、チョキとはさみの音が響く。
ときどき吹いてくる穏やかな風が、切ったばかりの髪の毛をふわりふわりと散らしていく。

「……ああそうか、じゃあ俺はおまえの『はじめて』を奪ってしまったのネ」

調子よく切っていた手元が狂いそうになって、あわててハサミを持ちなおす。
機嫌直ってきたかとおもったとたんになにを言い出すんだこのオッサンは!

「あのなー、そんなこといったらオレの『はじめて』はたいがいカカシせんせーに奪われてるってばよ。はじめて海いったのも先生とだったし、はじめて船乗ったのも先生とだろ?はじめて旅館泊まったのも、はじめてジンギスカン食ったのも、はじめて酒で意識なくしたのも、はじめて酒吐けって指突っこまれたのも、はじめて二日酔いになったのも…」
「そのへんはおまえがひとりで勝手に隠れて酒呑んで酔っ払ったせいでしょー、カンペキ未成年だったくせに」
「だって先生がうまそうに呑んでたからよー。あとはじめてキウイ食べたのも…」
「おまえ食べたことなかったの?」
「だってあれなんか毛むくじゃらで食い物に見えなかったってば…中身あんなんだとおもわなかったし。そんではじめて馬の乗り方教えてもらったのも…そういや牛にも乗せられたよなー。牛けっこう臭いんだよなー。それから……」

他愛もない『はじめて』を指折り数えていたら、先生がふいに振り返ってオレの胸元をつかんで引き寄せる。

「……っ!?」

唇の触れ合った感触に呆然としていたら、オレを振り仰いだままの先生が小首をかしげる。

「あ、さすがにコレは『はじめて』じゃないか」
「なっ……?ばっ……?!」
「ざんねーん、はじめてになり損ねちゃったー」

悪戯っぽく目を細められて、頭のどこかでなにかがブチリと切れる音がする。

「なにやってんだよっせんせーっ!!」
「なにってキ……わ、待ってハサミ振りまわすのはやめなさいヨ…っ」
「だー!もー!先生なんか坊主にしてやるってばよーっっ!」
「ははっ、ごめん、ごめんってー」
「笑うなああー!」

完全におもしろがっている表情の先生が、無駄にしなやかな身のこなしでオレの腕の先をすり抜ける。
先生が逃げるにつれて、切ったばかりの銀の髪があちらこちらへと舞い、夕暮れの薄闇に解けていく。

声がかすれるほどの大声でおもいつくままの文句をギャアギャアとあびせながら、いまだ唇に残る痺れるような感覚を、無理やり記憶のすみへと押しやった。

(20100828)

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