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呼吸にあわせて、ゆっくりと肩が上下する。
はたりと投げ出した左腕は肘のところで折れ曲がり、力の抜けた指先が横たわるソファの座面からはみだして頼りなげに中空にある。
伏せた睫毛が、瞼のしたに淡く影をつくっている。
しずかな部屋のなかで、コチコチと時計の秒針がすすむ音だけが響いている。

+++

「そういえばネジくんは元気かい?」
「はっあ?ネジ?なんで?」
「うちの母ちゃんがファンなんだわ。んで最近見かけないってうるさくってよお。ナルトは会ってないかね?」
「知らねーってばよー。どっか長期任務じゃね?っつかなんでネジなんだよオレのがかっこいいだろー?」

八百屋のおっちゃんに手渡された買物袋とつり銭を受け取りながら口を尖らせていたら、奥から貫禄のあるおばちゃんが笑いながら寄ってくる。

「ナルトくんもまあまあ男前だけどねー、なんていうかネジくんは知性的じゃない?あのもの静かでクールなところが素敵なんだよねえー」
「なに言ってんだおばちゃん、あいつ怒らせるとすんげえヒステリックだぜ!『おまえは何故いつも考えなしに行動するのか!』ってギャンギャン煩せえのなんの」
「そりゃナルトがホントに考えなしに行動してるからなんじゃねえんかい?」
「ん…まあ、いや、でもオレのが絶対いい男だってば!」
「はいはいナルトくんもおばちゃんの男前ランキング第3位くらいには入れとくよ、お得意さんだからね」
「なんだそれ!じゃあ2位は誰だよ!」
「シカマルくん」
「げえー!」
「ワシは?」
「お父ちゃんは圏外」
「待てよおばちゃん、シカマルは禿げる!ぜってえあの髪はあと数年の命…!」

わいわいと賑やかな木の葉商店街の表通りに、夕陽がつくる影がゆっくりと長くのびていた。

+++

あちらこちらで油を売りつつ買出しを終えて戻ってきたら、カカシ先生がソファで寝ていた。
いつのまにか日の暮れる時間がはやくなり、窓のそとに広がるオレンジ色の夕焼けと対照的に、部屋のなかは薄闇が満ちはじめている。

寝息が聞こえるわけでもなければ微動だにすることもない姿に一瞬生きているのかどうかと疑ってしまったけれど、よく見れば呼吸に合わせて先生の肩先がかすかに揺れ動いているのがわかる。
3人がけのソファは長身の先生でも膝を曲げればじゅうぶん横になれるサイズで、藍色っぽい砂漠の民族衣装のような服を着た先生の胴体は紺のソファの生地と一体化してしまっているように見える。

せんせい、と声をかけようとして、やめた。
数日前に切ったばかりの前髪と、それに不釣合いに長く伸びたままの襟足の髪が、縁側から吹き込む微風に揺れる。
薄闇のなかで、白い肌のいろだけが仄かに発光しているようだ。
複雑な影をつくる耳殻からつながる顎の骨が尖っている。
それから、ほんのわずかに開いた、色のない唇。

疲れているんだろう寝かせておいてあげよう、そう無理に結論付けて視線を引き剥がし、ソファの対面に置かれた籐の椅子にそっと腰掛ける。
体重を受けてギッとちいさく椅子が軋み、起こしてしまったかと焦ってソファを見遣るが、先生は目覚めた様子もない。
コチコチという時計の音が、やけに大きく聞こえる。

こんなふうに先生の寝顔を見るのは、もしかしたら初めてだろうか。
任務で何度かおなじ宿にとまったことはあるし交代で野営の見張りについていたこともあるから、目を閉じて横になる先生を見たことならある。
でも先生はいつだって視線に敏感で、交代の時間だと声をかけるまでもなく、オレが視線を向ければすいと瞼を開くのが常だった。
こんなに近くで眺めているのに目を覚まさないなんて。
胸騒ぎにかられて揺り起こしてしまいたくなるのを、ぐっとこらえる。
ただ寝ているだけだ。
任務じゃないしここは先生の家なんだから気を抜いているだけだ。
大丈夫だ。

大丈夫、なんだろうか。

無造作にあちこちへ跳ねた髪がかかった首筋は細く、その付根から直線的なラインを浮き上がらせている鎖骨はくっきりと深い影を落としている。
この家に越してきてから、いったいどれくらい体重を落としたのか。
食べてはいる、はずだ。
一緒に食事を作るときにはガツガツといわなくても普通の量を口にしていたし、買ってきた野菜や魚は次の買出しのときまでにきちんとなくなっているから、オレが居ないときだって食べているはずだ。

ということはもしかして、まだ吐いているのだろうか。
以前のように頻繁に吐いている様子はない、というよりここ数週間吐いているところを見たことはなかったから治まったのかとおもっていたのだけれど、だったらこんなふうに痩せたままでいることもないんじゃないだろうか。

足首まで藍色の服に包まれていて、先生の体型はよくわからない。
腹が膨らんでいないことだけは確かだ、ってあたりまえだ。
そもそもこの妊娠云々っていうのはなんなんだ。
どうして先生はずっとこの家に篭っているんだろう。

聞いてみようか、と考えてすぐにおもいなおす。
どうせ真面目に答えてくれるわけがない。
むしろそれをネタにしてさらに揶揄われるだけだ。
いつだってカカシ先生はオレをコドモ扱いして、ふざけたことばかりするんだ。
このあいだのことだって。

頭の隅へ追いやったはずの痺れが唇を掠めたような気がして、ブンブンと打ち消すように頭を振ったらまたキシリと椅子が鳴った。
あわてて身動きをやめて息を潜めれば、ひんやりと温度の下がった風がしずかに吹き込んでくる。
縁側の風鈴がなくなっている。
もう9月も終わりだから片付けたのか。

暮れていく窓のそとをしばらく眺めてから視線を戻したら、部屋のなかがいっそう暗くなったように見えた。
先生の頬が仄白くうかぶ。
傷のないほうの瞼に、長い睫毛。
すっと通った鼻筋。

そういえば、以前はいつも商店街のおばちゃんたちの話題になるのはカカシ先生だった。
あんたの格好良い先生はお元気かね、とか、また買い物に来てくれといっておいてくれだとか。
口布をしてエロ本もって歩くカカシ先生のどこがカッコイイのかと、散々にいい返すのが決まり文句のようになっていたのに。

気付けばもうずっと、噂にのぼるのはオレの同期のやつらのことばかりになっていた。
変わり始めたのはいつからだっただろう。
キバがどこかの任務で活躍しただのヒナタが綺麗になっただの。
肉屋のおっちゃんも八百屋のおばちゃんたちも、みんなカカシ先生のことばかり話していたことなんてもう忘れてしまったかのようだ。
カカシ先生がもう何ヶ月も任務を受けずに篭っていることだって、誰も気づいている様子がない。

カカシ先生はもしかしたら、このまま消えていってしまうつもりなんじゃないだろうか。
ふいに胸に浮かんだ不安にかられて、薄闇のなかに溶けこんでしまいそうな先生の姿に、おもわず腕をさしのべる。
触れたい。
抱きしめたい。
抱きしめて腕のなかで先生の身体の厚みと体温を感じたい。
そうしたらちゃんと先生が生きていることを確認できる。
そうしたらオレは。
そうしたらオレは…?

白い頬に触れる直前、はっと指先を引っ込めて、叫ぶ。

「カカシ先生っ!」
「……ナルト?」

オレの大声に、先生がぱちりと右目をひらく。

「なあにー?あー…戻ってきてたんだー?おかえりー」

あくびでも出そうなほど間延びした声で返答されて、脱力する。
浮かしかけていた腰をドサリとおろして籐椅子にもたれかかったら、ギギギとおおきく軋む音がした。

「どしたのナルトー?」
「どしたのじゃねえってばよ!先生、オレに買い物行かせておいて呑気に昼寝してんじゃねえよ!」
「んーごめんごめーん、なんかこのところ眠くてしかたないのよねー」

緊張感のカケラもなくモソモソと頭を掻きながらソファに座りなおす先生の姿に心のなかでほっと息をつきながら、左手で押さえ込んでいた自分の右手首を離す。
ヤバかった、とおもってから右手と先生の顔を見比べる。
なにがヤバいんだ?

触れてしまいそうだった。
触れたら先生のあの頬はきっと、ひんやりとしていて、なめらかで…

「なにヨ、じっと見つめちゃって…なんか付いてる?」

すいと頬骨あたりを拭ってみせる先生に、ああ、とか、いや、とか曖昧な答えを呟く。
小首をかしげる先生の鎖骨のすぐ上で、灰色にくすんでみえる柔らかそうな髪の先が揺れる。

「あー、それともムラムラっとしちゃった?」
「え……ええ?」

ゆらりと立ち上がった先生が、間の抜けた声をあげるオレに歩み寄って、肩にそっと手をかける。

「……でも、寝込みを襲うならそんな大声で名前呼んじゃ駄目…デショ?」

身をかがめたカカシ先生が、オレの耳の中に吹き込むように囁く。
低く掠れた、甘い声で。

「……っ!!」

バッと耳を押さえたときにはもう、先生の身体は離れていた。
見あげた視界に、すこし背中を丸めた細身の後姿が映る。

「なっ…、だ…っ誰が襲うかああーっ!」

雄叫びをあげたとたんに、ぱちりと電灯がついた。
いきなりの眩しさに目を瞬かせていると、壁際のスウィッチから手を離した先生が、床に置きっぱなしにしていた買物袋のひとつを持ち上げて、覗く。

「あー、梨買ってきてくれたんだ。おいしそう。秋って感じだねーえ」

電灯の白っぽい人工光に照らされて、寝癖のついたままのカカシ先生が、いつもどおりののほほんとした口調で、嬉しげに目を細めた。

(20101015)

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