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[7]ここに、とかたちのよい指が地図の一点を示す。
神経質なまでにきっちりと短く切りそろえられた爪の先が、青く引かれた線をたどる。
「北東から南西へと流れている川は現時点においても水流が早いが、雨でさらに水嵩が増すことが予想される。匂いと音を誤魔化すにはうってつけだ」
地図の一端をトンと叩いた指先が、長い髪を煩げにかきあげる。
あらわになった頬は白く、鼻筋はどこか冷たい印象を抱かせるほどに薄く高い。
「故に第一隊はこのルートを沢上へ向けてたどり、分岐点から森を抜けて北上する。そして地点Bで待機する第二隊の連絡を待ち…」
男にしては長い睫毛も、髪と同じ漆黒でまっすぐだ。
低くしゃべる声音は揺るぎがなく、一切の無駄のない話しぶりは頭のキレをうかがわせる。
だけど。
「わかんねえってばよ…」
「なんだナルト、疑問点があるのか?」
色味のない瞳がこちらに向けられる。
卵形の顔貌にすこし細めの黒い眉は、たしかによくバランスが取れているかもしれないが。
「わっかんねえ…なんでネジが男前ランキング一位なんだ?」
腕組みをして唸りながら呟いた瞬間に、無言のままのネジのこめかみにピシリと青筋が立った。
+++
「ナルトは今頃なにしてるかしら」
「さあね。まだ作戦会議でもしてるんじゃないの…っていうか、おまえこそなにしてるんだよ」
「栗の皮剥き。見てないで手伝って」
「なんでわざわざココでするのかって訊いてるんだよ」
「ひとりで剥くの大変なんだもの」
「シカマルにでも手伝わせればいいでしょ、いつもこき使ってるんだから」
「あら、多忙な『里の頭脳』に栗剥きなんてさせられないわ」
「なにいってんだよ、散々ベビーシッターやらせてるくせに」
勝手に庭先からはいりこんできた紅が、縁側に置いた手提げ籠のなかから大粒の栗をつまみ出し、まるみのある底辺をクナイですとんと切り落とす。
「シカマルもうちの子も、栗御飯好きなの。あんたにも分けてあげるから手伝いなさいよ」
「いらないよ」
「ちゃんと食べないと、ナルトが帰ってきたときに心配するわよ」
「余計なお世話」
「また痩せたわね」
「夏バテなんだよ」
「もう10月なのに?」
底辺の切れ目から差し込んだクナイの先で、パキンパキンと器用に硬皮が割られる。
削ぎ取るように渋皮を剥いだ実を、紅がしげしげと眺める。
「栗も種よね。一本の木に何十個も実をつけるのに、こんなふうに人や動物に競って食べられたら木にまで成長する確率はかなり低いんじゃないのかしら。種の保存を目的とするにはずいぶんと勝率の低い賭けをしているのね」
「知らないよ。べつに世の中から栗がなくなったって俺は不自由しない」
紅の細い指が剥いたばかりの栗をぽいと放り出すように敷紙に転がし、籠からまた茶色の実を取る。
「この実の細胞につめこまれたDNAが遺伝情報を持ってるから、こんなちいさなのが栗の木になれるのよね」
「生物の宿題なら自分の家でやれって」
「栗の皮ってうちの子の目の色とおなじ。アスマの遺伝子かしら」
それきり黙りこんだ紅が、パチリ、パチリと栗の皮を割っていく。
ときおり跳ね飛んだ皮の破片が、ぬかるんだ庭土のうえに落ちる。
「……わかったよ。手伝うから、剥いたら帰れよ」
溜息をついて、籠の中の木実に手を伸ばす。
しとしとと、霧のような雨が降り続いている。
+++
「だっておまえが一位でオレが三位なんてどう考えてもおかしいだろ?!」
「おかしいのはオマエの頭の中だ、ナルト。いまは戦略会議中だというのに一体なにを考えているんだ」
「それもしかして八百正のおばちゃんの男前ランキング?ボクも三位だったよー」
「なにい?チョウジも三位ってどういうことだよ!」
「食べっぷりがいい男は男前なんだって言ってたよー」
「ちなみに俺も三位と言われた。奇遇だな」
「はっあ?なんでシノまで?っつかおまえ八百屋なんて行くの?」
「野菜果物を主食とする昆虫は数多くいる。家庭菜園でも栽培しているが時として生産量に不足が生じる場合もある」
「おまえなんて顔でてる部分が全然ないじゃねえかよ!」
「寡黙で神秘性のあるものに対して心惹かれる感情が生じるのは当然の心理ではないのか、人として」
「だー!めんどくせえめんどくせえおまえの話し方は面倒くさすぎだああーっ」
「……おまえたち、いまは戦略会議中なんだといっただろうが!」
+++
パチン、と跳ねた硬皮が室内にまで飛び、積みあげた本のうえに落ちる。
腕を伸ばして焦茶色の破片をつまみあげると、追うように視線をめぐらせた紅が目を眇める。
「それ、ナルトに読ませてた兵法書?どこまで進んだの?」
「全然。まだ一冊目の半分を過ぎたところだ。あいつは集中力がなさすぎる」
「わかりきってたことじゃない。ナルトには無理でしょ」
「だからって、これくらいは読んでおくべきだろ」
「でなきゃ心配で置いていけないから?」
口を開きかけて、噤む。
栗の実にぴたりと貼りついて捲れない渋皮を、クナイの端で削ぎ取る。
「ねえ、どうしてこんなひどい無茶を引き受けたの?」
「……ほかに方法がなかったじゃないか。それに別にそんなひどい無茶ってわけじゃない。勝算があるから綱手さまだって許可したんだ。知ってんだろ」
「綱手さまは医療においては勝算のない賭けはしないわね。でもそれはあなたの体調が万全であることが前提だったでしょ」
剥いた栗をぽいと転がした紅が、ふいに腕を掴んでくる。
クナイを握ったままの手首に、華奢な指先が巻きつく。
中指と親指の距離がくっつきそうなほどに近いのを、無言のまま示される。
振り払おうとしたら、栗とおなじようにぽいと放るように手を離された。
「まるで死に場所を探してうろついてる痩せこけた年寄猫みたい」
「ふん、おまえのほうが年上のくせに」
すこし雨脚が強まってきたが、風がないせいで縁側までは降りこんでこない。
ひさしから垂直に落ちる水滴が、灰色のカーテンのようだとおもう。
「そんなに生きていくのが嫌?」
「は。ヒトを自殺願望者みたいにいわないでくれる?」
「ああ、あなたに自殺はできないわよね。でもこれで命を落としたら、あなたは里のために死んだことになれるでしょ。綱手さまの『勝算』とあなたの『勝算』は違うんじゃないの?」
「なにが言いたいんだよ!」
手にしていたクナイを床に叩きつけたら、ゴツッと鈍い音がした。
紅い虹彩の瞳が、揺らぎもせずにひたりと見つめ返す。
「このままの状態で手術を受ければ、あなたは生き残れない。それがわかっているというのなら、この衰弱状態はなに?死にたがっているようにしか見えないわ」
「俺はちゃんと食ってる」
「でも吐くのね」
「どうしようもないんだよ!」
荒げた声を、雨が吸い取る。
「食わなきゃいけないのはわかってる!でもどれだけ頑張って詰めこんでも身体が拒絶するんだ。気がつけば吐いてる。点滴や兵糧丸じゃ足りないのは知ってるよ。でもじゃあどうすればいいんだ?」
「カカシ」
「生きていくのが嫌なのかって?嫌だよ、だって俺はもう役立たずだ。このまま使い物にならなくなっていく眼と衰えていく身体をかかえて生き続けていくことになんの意味がある?」
「あなたなら、他になんだってできるでしょう」
「なんだってできるということは、なにも出来ないことと同じだろ。俺は忍としての生きかたしかできないよ。殺しあって、血を流して、いつかどこかの戦場で野垂れ死ぬことができるだろうとおもっていたのに、守るものばかりが増えるしそのうち守っていたはずのものが俺を守りたがるし」
ときおり撥ねかかる雨の飛沫がじとりと重くまとわりついて鬱陶しい。
「戦線を退いて里で生きていくっていうのはつまり、もう誰も俺を殺してくれないっていうことでしょ。ただでさえ生きていくのはしんどいのに、ずっとこんな安全地帯に留まれっていうの?このさき何十年も続くかもしれないのに?」
まっすぐに刺さってくる視線に厭いて、顔をそらす。
「俺はおまえやアスマみたいに子どもを作って里に根をはるなんてできないよ。この身体で役に立つ部分があるっていうならいくらでも差し出すさ。でも、そうしたら、もういいだろう?このままここで終われたらいいのにと…どこかで願ってしまうのはそんなにおかしいか?」
「あなたは忍でなくなることが怖いのね」
「怖い、よ」
ザアザアと強まる雨脚が、ぬかるんだ庭土に無色の棘のように突き刺さっていく。
「……あなたがここで里のためという名の死を選ぶなら、いずれナルトもそうするわよ。四代目もクシナさまも自来也さまも里のために命を落とした。あの子には、それ以外の生き方を教えてくれる人がいないんだもの」
「里のために命をかけるのは当然でしょ、忍なんだから。アスマだってそうしたじゃないか。ましてやナルトの目標は火影だ」
「里のために命を落とせば、忍は英雄になるのよね」
ぽつり、と呟く。
感情の伺えない平坦な声音に目を向けてみれば、紅は左の人差し指と親指のあいだにつまんだ焦茶色の実を、表情もなくじっと見つめている。
「遺伝子を残すことだけが、そんなに大事なのかしら」
「……紅」
「男は自分が命を落としても子孫さえ残せばそれでいいとおもいたがるみたいだけれど」
紅の華奢な掌のなかで、栗の実が転がる。
「うちの子は、いま五歳なの。いろいろな人が事あるごとにあの子にアスマのことを話してきかせるのよ。どんな男だったかとか、どんな忍だったのかとか。英雄だったっていう人もいるわ。でもね、どれだけ話して聞かせたところであの子にとってアスマはしょせん『会ったことのない人』でしかないのよ」
淡々と話す声に、雨音が混ざる。
「目の色は、アスマと同じだわ。鼻筋がアスマに似ているという人もいる。だけど私はシカマルを見ているほうがアスマをおもいだすの。なんでもない口調や、クナイの研ぎ方、ふとした仕草がアスマとまったく一緒なのよ。血のつながりなんか全然ないのにね」
ふふ、とちいさく笑いながら、紅がクナイを持ち直す。
「アスマと共に過ごすことで、シカマルにはたくさんのことが伝わった。それは大半がくだらないことばっかりかもしれないけれど、でもそういったものがアスマからあの子に伝わることはない。それを寂しいとおもうのは、間違っているかしら」
すい、とクナイをすべらせる。
切り取られた栗皮の底辺が、音もなく落ちる。
「共に生きるということは、おおきなことなのよ。あなたがナルトにどれだけ兵法書を読ませたところで、それはただの薄っぺらな知識でしかない。あなたと共に生きて過ごすということで得られるもの以上にナルトが学べるものなんてないわ。それに」
紅の刃先が、堅い殻をすこしずつ剥いでいく。
「守る、っていうのは誰かの命を犠牲にして誰かの命を繋ぐだけのものじゃないわ。火の意志は遺伝子に組み込まれているわけじゃない。火の意志は生きかたで示されるんでしょう。だから先をいく者はまず生きてみせなきゃいけない。それがたとえ真っ暗な洞窟の中をもがき進むようなことだとしても、ひとたび生命の灯を受け取ったならそれをできるだけ遠くまで運ばなくちゃいけない。あなたが苦しんで先へ行けば行くだけ、ナルトたちはもっと先へ進める。あなたは、まだ道のりの半分も進んでいないでしょう?」
パチンと跳ねた硬皮の欠片が、胸に当たって膝に落ちる。
「だから、生きなさい。誰も殺してくれなくても、衰えと向き合わなくてはならなくても。戦線を退いた後にも立ち向かうべき人生があるんだって、ナルトに教えられるのはあなただけなのよ。四代目が、自来也さまが、アスマが伝えられなかったことを、あなたがナルトに、あの子たちに伝えてよ」
膝のうえに乗ったままの硬皮を見おろす。
艶のあるちいさな濃色の端は白っぽく筋張って、突き刺さりそうなほどに尖っている。
「………そんなの、俺には荷が重すぎる」
ようやく呟いた言葉をかき消すように、雨が降り続いている。
+++
「だあああー…ネジ煩せえ…ヒステリーだろカルシウム足らないんじゃねえの…」
野営テントを出て河原に向かって歩きながらぼやいていたら、くすくすと笑い声がした。
「だいぶ怒られてたみたいだね」
「チョウジ…も、ひでえよあいつ一時間ぐらい説教垂れてたぜ。オレの繊細なハートはボロボロだってばよ」
ポケットに両手を突っ込んだままハアと溜息を吐いたら、河原の大岩に座りこんでいたチョウジがまた笑う。
「ナルトそれ、カカシ先生にそっくり」
「それ?どれ??」
「溜息のつきかた。そうやってポケットに手いれて背中丸めてはああ、ってやるよね、カカシ先生も」
にこにこしながらチョウジが見上げてくる。
「ええ?そうかー?」
「やっぱり似てくるんだよねえ。イノとかもさあ、焼肉のたれを小皿に入れるときにいつもちょっと首かしげる癖があるんだけどその角度がアスマ先生とおんなじなの…あ、これ内緒ね、似てるわけないでしょ!って怒られるから」
イノのキンッとした怒鳴り声が脳裏によみがえって、苦笑いする。
たしかにあまり怒らせたくはないってばよ。
「カカシ先生は、元気?」
「んーまあ、元気っていえば元気っていうか…」
妊娠云々については語る気のないまま、先生の姿を頭に浮かべる。
細い肩先、色の白い肌に影を落としていたくっきりとした鎖骨の窪み、そして耳元に落とされた悪戯っぽい擦れた声。
ぶんぶんと頭を振って落ち着かない記憶を追いやり、訝しげなチョウジの視線にちょっと慌てる。
「あー…あいかわらず訳わかんない冗談ばっかりいってるってばよ」
愚痴っぽく答えたら、チョウジはへにゃりと目尻をさげた。
ゴツゴツとした大岩に腰を下ろして、チョウジと一緒にしばらく川を眺める。
夜空を覆うようなおもたい雲のせいで、ザウザウと沢音が響いているのに水面は暗く沈んで飛沫もみえない。
ふう、ともういちど溜息をついてから、気付いて両手をポケットから出す。
チョウジがおもしろそうな顔をして見ているのに、軽くアッパーをいれるふりをする。
「やっぱ先生に似てるって言われんのってちょっとフクザツな気分だよなー」
「ふふふ、でもそれってそれだけ一緒にいるってことでしょ」
チョウジが大岩の窪みにはまっていた小石をつまみあげ、ぽんと手のひらで弾ませる。
「ボクはアスマ先生に似てるって言われるの、嬉しいよ。ホントはもっといろいろ教えてもらいたかった。もっといろんな話して、そしたらもっとたくさんのところが似たんじゃないかな」
もっと一緒にいたかったなあ、と呟いて、手元の小石を川面に放る。
ポチャン、と沢音のあいだに水音が立つ。
もっちりとした頬の横顔はいつもどおりに、すこし笑んでいるように穏やかだった。
「……なあ、おまえは、どんなところがアスマの先生に似てんの?」
「えへへへへ、ないしょ」
なんでだよ、と突っ込みをいれるオレの手をぽわんとやわらな二の腕で撥ね返して、チョウジが立ち上がる。
「そろそろ戻ろっか。寝過ごすとまたネジが怒るよー」
「あれ、まてよ…?ってことはネジはゲジ眉先生とどっか似てるのか?」
「んまあ、先生だからねえ。リーほどじゃないにしてもどこかはきっと似てるんじゃない?」
「おお、じゃあオレ絶対に似てるとこ見つけ出してやる!んでおもいっきり指摘してやる!!」
「すごい嫌がるだろうねネジ」
「うおおっしゃー!覚悟してろってばよーネジー!!」
里の方角から吹いてくる湿り気のある風が、笑いあいながら歩くオレたちの頬をさわりと撫でて通り抜けていった。
(20101018)
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