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[8]

それを信じたのか、と。
呟いた声が、すこし掠れた。


+++


いつのまにか通い慣れた細い道を、鼻歌をうたいながら歩く。
踏みしめる足元にはすこし湿気った茶色い枝葉。
あたまのうえにはしばらく見ない間に赤や黄色へと色づいた木の葉が、カサリカサリと揺れている。

シカやイノシシくらいしか通らなさそうな人気のない森をしばらく進むと、ぽつんとたたずむ家が見えてくる。
表札のない玄関先で、古めかしいドアチャイムを鳴らす。
ひっそりとした家のなかに、ピイインポオオンという気の抜けた音が響く。
しばらく待って、もう一度。
しかしひっそりとした玄関の扉は、ひっそりと静まり返ったまま開かれることはなかった。

「おーい、せんせー!留守―?」

声をかけながらぐるりと周囲を回って建物の裏側へ出てみる。
黒板塀に沿うようにモソモソと好き勝手に雑草が生い茂っている。
ちいさな庭に面した縁側には、黒く重厚な木製の雨戸が立てかけられている。

「おいおい先生、まさかオレの居ないあいだに家のなかで行き倒れてたりとかしねえよな?」

独居老人孤独死、というどこかで見た新聞の見出しが頭をかすめる。
年寄り扱いなんてしたら確実に殺されるだろうけども。
もしかしたらまだ寝てるのかな。
空のてっぺんに届くまでにはまだすこし間がある太陽の位置を見上げて、腕を組む。
うん、ありうる。
最近先生ってば寝てばっかりだったし。

雨戸に手を掛けると、それはなんの抵抗もなくあっさりと動いた。
カギの掛かっていないガラス戸も引き開けて、室内に上がりこむ。
部屋のなかはいつもと変わりがなかった。
古びたソファと籐の椅子、低いテーブルの上に塔のように積まれた兵法書が十二冊と三巻。

キシキシと鳴る廊下を通って、寝室のドアをノックする。
軋むドアをできるだけそっと押し開けると、カーテンの閉じられた薄暗い部屋のなかにはベッドがひとつだけポツンと置かれていた。
そこに眠る人の姿はない。
白いシーツが、まるでホテルか病院であるかのようにピシリと張られている。

風呂場、トイレ、台所と、廊下に並んだ順にひとつひとつ覗いていって、最後に書斎のドアを開ける。
書棚を埋め尽くし、床面すらも占拠しそうなほどにあったはずの本が、消えていた。
閉じられたカーテンの隙間から差し込む外光が、残されたままの空の本棚と机のまわりにチラチラと舞い上がる埃を照らしている。

居間に戻って、テーブルに積まれた兵法書を見下ろす。
薄暗い廊下を振り返る。
コチコチと壁掛時計の秒針の音だけが響いている。

カカシ先生、と呟いた言葉が誰もいない空間に落ちきる前に、まっしぐらに家の外へ走りだし、庭を取り囲んだ塀を一気に飛び越えた。


+++


「ヤマトの容態が急変した」

綱手のばあちゃんが不機嫌に言う。

里の街中へ駆け戻ってまっさきに訪ねた紅先生の家は、留守だった。
じっとしていられずに押しかけた火影執務室では、綱手のばあちゃんが書類の山に囲まれていた。
忙しいからあとにしろ、と煩さげに追い払われそうなところを強引に食いさがってカカシ先生の居所を尋ねたのに。

「ヤマト隊長じゃなくってカカシ先生のこときいたんだってばよ!…って、あれ?ヤマト隊長、病気なの?」
「なんだ、カカシからなにも聞いていないのか?おまえはカカシを隔離したあの家に行っていたんだろう?」
「隔離?なにそれ?カカシ先生は妊娠したから引っ越したって…」
「妊娠?」

ばあちゃんが呆れかえったような顔をして、溜息をつく。

「……それを信じたのか」
「信・じ・て・ね・え・よ!男が妊娠しないことぐらいはオレでもわかってるってばよ!」
「どうだかな」
「ちょ、そこは信用してくれよ!」

疑わしそうな目をしたままでオレを上から下までじろりと眺めた綱手のばあちゃんが、もう一度ふうと溜息を落とす。

「ヤマトは神経ガスのようなものによる攻撃を受けたらしい。六月初旬のことだ」

極秘任務だからと詳しいことは教えてくれなかったが、難度はかなり高いものだったらしい。
長期にわたる潜入で機密情報を調べ上げ、いざ撤収という時点でツーマンセルの相方がミスをした。
敵方は情報が漏れるくらいならとすべてを巻き込んでの自滅をはかり、隊長たちはかろうじて脱出したものの一名はまもなく死亡した。

「ヤマトもひどい状態だった。なんとか生命は取り留めたが意識は全く戻らない。なにより骨髄の機能にダメージを受けていた。幹細胞の移植が必要だったんだが造血幹細胞は動物の体内でなら増殖できてもラボではできない。しかもヤマトの細胞は特殊だ。だからカカシの体内で造血幹細胞を培養することにした」
「え…?なに、待って、ゾウのケツ?」

いきなりわけのわからない単語がいくつも出てきて戸惑っていたら、ばあちゃんが白い目をして見返す。

「……つまりカカシを妊娠させたんだ」
「ちょ、ばあちゃん説明すんの諦めんなよ!」
「ヤマトに必要な細胞をカカシの体内で培養したんだよ。他人の細胞をじぶんの身体の中で育てるんだから妊娠みたいなもんなんだろ」
「あー?うん?そう…なのかな…?でも、なんでカカシ先生が?」

ばあちゃんは机の上の湯飲みを手にとり、とうに冷めているらしい茶を不味そうにずずっと啜る。

「じぶんのものではない細胞を体内で培養しようとすれば、当然身体は他者の細胞を異物とみなして攻撃する。免疫反応だ。それを制御するためには培養する生体の免疫力を抑制するんだが、ヤマトの特殊な細胞を成育させるためには、一種の毒物で免疫力を抑制する必要があった」
「毒?」
「二十年くらい前まではよく任務時にも使われていた毒物なんだが、効力の時間が不安定なのと扱いが面倒なのでいまはどこの里でも使われない。もっと使いやすい毒物が他にたくさん開発されたからな。暗部には毒に耐性をつけた忍がいくらもいるが、そんな古臭い毒にまで耐性をつけているやつはいない。耐性をもっているのがいるとすれば、二十年以上も前に暗部にいたやつくらいだ」
「それって…じゃあカカシ先生は…」
「ただでさえ免疫力を抑制するのに、さらに毒物を投与されたら、耐性がない人間はひとたまりもない。いま里にいる忍であの毒物の耐性を持っていると確認できるのはカカシしかいなかった。カカシは、やると言った」
「そっか…でもなんかそういうのって…耐性ってのがあれば、平気なもんなのか?」

冷めた茶を飲み干して、ばあちゃんが湯飲みを乱暴に机の端へ押しやる。

「平気なわけないだろ。身体のなかに他人の細胞を培養する特殊環境をつくるんだからな。しかも耐性といったってその毒物が効きにくいというだけであって効かないわけじゃない。特殊細胞の培養には通常の十倍もの時間が掛かるからリスクは非常に高くなるし、なんらかの後遺症が残る可能性だってもちろんあった」
「は?なにそれ!先生はそれ知って…?」
「説明はした。カカシはそれでもいいと言ったよ。それで忍としてやっていけなくなったら、古本屋のオヤジにでもなってのんびり暮らすんだと笑ってな」

本に囲まれていたいつかの先生の姿が、ふいにおもいうかんだ。
そういうのもいいねえと、まるで他人事のように呟いていた声。
扇風機が運ぶ生温かく埃っぽい風に、ふわりふわりと揺れていた銀の髪。

「…それを信じたのか?」

問いかけた声が、おもいがけなくちいさく掠れた。
ばあちゃんはすこし俯いて、信じたさ、と自嘲気味に言った。

「それがあいつの望みなら、叶えてやりたかった。あいつは忍としてもう十分に長い間働いた。六歳のときからだから、三十年だ。年齢だけならまだ引退には早いんだろう。だがここ数年であいつの写輪眼の機能は急速に衰えている。酷使しすぎたんだな。本来の目のほうにかかる負荷も相当なものだ」

肘をついて組んだ両手の先に額を押し付けるようにしながら、ばあちゃんが低い声で語る。

「それでもあいつが写輪眼のカカシであるかぎり、指名依頼は来る。若手の忍では不安だから名のある忍を寄越せとかほざいて厄介事ばかり持ち込むジジイ共はどこの国にもいるんだ。そしてカカシはなまじ有能な忍だからな、写輪眼が不安定だろうがなんだろうが傍目にはそつなく任務をこなしてみせる。だから依頼は減らない。しかし不安定な眼を酷使し続けるカカシの肉体的精神的負担は増すばかりだ。限界は、たぶんもうすぐそこだった。だったらいっそ…」

綱手のばあちゃんが口をつぐむ。
執務室内にしんと一瞬の静寂が落ちる。

「いっそ、忍として使いものにならなくなってしまえば、あいつは楽になれるのだとおもった。血なまぐさい戦場を離れて、穏やかな里で、嫁でももらってのんびり幸せな暮らしをさせてやれるのだとおもった。それに値するだけのことをカカシは成し遂げてきた。もう十分だ。だが、私は、カカシを理解していなかった」

組み合わせた指先に、ぎゅっと力がこもる。

「培養を始めたとたんに、あいつはみるみる痩せていった。はじめは免疫反応のせいだとおもっていた。でも、どれだけ手を尽くしても回復させられなかった。そんなことはわかっていたはずだったんだ。カカシには忍以外の生き方などできない。忍であることがあいつのすべてだったんだ。けれどひとたび培養を始めてしまったからには、いずれ取り出さなければあいつの身体を蝕むばかりだ。そこへきてヤマトの容態が急変した。予定よりも一ヶ月ちかく早いし衰弱している状態のカカシに手術に耐える体力があるとはとても言い切れなかったが、やらなければヤマトは助からない。ヤマトの意識が戻らなければ、せっかく命がけで入手させた機密情報が失われてしまう」

私はヤマトの情報が欲しかっただけかもしれんな、と呻くような苦い呟きが漏れる。
情報欲しさに、カカシのことばを信じ、カカシのためにもなるなんて嘯いて、あいつを犠牲にしたのかもしれん、と。

犠牲という単語が頭のなかを回る。
なにか言おうとして、喉がからからになっているのに気がついて、何度かつばを飲み込んで、ようやく声を絞りだす。

「犠牲って…なにいってんの…?カカシ先生は?無事なのか?」
「なにをもって無事というかによるな」
「ばあちゃん!」

オレの叫び声に、綱手のばあちゃんが顔をあげる。

「オペの最中にカカシの心肺は停止した」
「なっ!」
「すぐさま蘇生措置を施したら、やがて鼓動は再開した。カカシは生きている」

ほっとして大きく息をついたオレを、ばあちゃんが冷ややかに眺める。

「おかげでヤマトはなんとか大丈夫そうだ。カカシも三途の川から引っ張り戻した。それがあいつの意思に適ったものかはわからんがな」
「生きてるんだな先生!よかった!じゃあ会わせてくれよ!」
「駄目だ」
「なんで!カカシ先生はどこにいるんだってばよ!」
「機密だ」
「なにいってんだよ、会わせろよ!」
「会ってどうする?出産おめでとうとでもいうのか?」
「んなわけねえだろ!教えてくれないなら片っ端からじぶんで捜す!」
「おまえは…っ」

バンッ、とばあちゃんが両手で机を叩いて立ちあがる。

「おまえはいつもそうだな、ナルト。だがおまえはじぶんの姿を知っているのか?じぶんではまだ十二歳のガキのつもりでいるかもしれんがな、おまえはもう馬鹿みたいにでかくなって馬鹿みたいに力にあふれて馬鹿みたいに怖いもの知らずだ。どれだけ馬鹿でもおまえは紛れもなく木の葉の第一線の忍だ。おまえは、」

薄茶色の瞳が、ギチリと音を立てるように睨みあげる。

「おまえはな、カカシが今まさに失ったものすべてなんだよ」
「っ、そんなの…」
「じぶんで捜す、か。捜せるだろうな。それくらいできなければ第一線の忍とは言えんからな。だがいまカカシに会ってどうする?同情してやるのか?今度はおまえがあいつを守ってやるとでも言ってみるか?カカシはどうしようもなくくだらないプライドの塊みたいなやつだぞ」
「ばあちゃん…」

頭のなかで渦巻く気持ちをどうあらわしていいのかわからずグッと奥歯を噛んで両拳を握りしめていたら、ふいに頬を風がなでた。
視線をあげた先で、ガラス戸を開けた窓枠にばあちゃんが腰をかける。

「……カカシにすこし時間をやれ、ナルト。いまはまだ容態が安定していないが、すくなくとも悪化しているわけじゃないんだ。じぶんでじぶんの状態に折り合いが付けられるようにまでなったら、あいつのほうから戻ってくるさ」
「だって先生は、いま苦しいのに」
「だからといっておまえに何がしてやれる?いまのお前にできるのは、信じて待っていることだけだ」
「待つだけなんて、帰ってきてくれるかどうかわかんないんじゃねえか」
「だから信じろと言っているんだろう。私もカカシを信じたい。あのとき鼓動が戻ったのは、あいつの『生きる』という意思なんだと信じたい」

窓の外を眺める綱手のばあちゃんの横顔は、初めて会ったときからすこしも変わらず若いままで、なのにすごく疲れきっているようにみえた。
ひんやりとした風が、積みあげられた書類のあいだをゆるやかに通り抜けていく。

「信じて、待っていてやれ、ナルト。それが今のおまえにできる唯一のことだ」

突き刺さるように痛みの混じった、祈るようなばあちゃんの声にうつむいて、冷えた風を大きく吸い込んで、それから執務室を出た。


+++


開けっ放しにしていた雨戸のわきには、カサカサに枯れた蔓が巻きついたままの朝顔の鉢が置いてあった。
差し込むおだやかな陽光が、古びた板床をあたためている。
おそらくこの家が建てられたときからあるのであろう年代ものの掛時計が、コチコチと途切れることなく時を刻んでいる。

先生がここにいたのがたった五ヶ月間だったというのが嘘みたいなほど、部屋のあちらこちらにはまだカカシ先生の気配が残っていた。
猫背気味の背をいつも以上に丸めるようにしてくぐり抜けていた鴨居、先生が歩くときだけ鳴らない廊下、猫のように目を細めながら凭れかかっていた籐のロッキングチェア、肌の白さを引き立たせているかのようだった濃紺のソファの布地。
残されたひとつひとつを目で追っていって、唐突に理解した。
先生がここに篭っていた理由を、オレはなぜずっと問いたださずにいたのか。

疑問におもわなかったわけじゃない。
だけどそれよりもオレは先生にここにいてもらいたかった。
そして一緒に時間を過ごしていたかった。
からかわれるから、どうせ冗談で紛らわされるだけだからなんてじぶんを誤魔化していたけれど、本当は理由を訊いてこの穏やかに過ごす時間が失われてしまうのが怖かったんだ。

七班でいたころに似た、でもそれよりどこかが妙に後ろめたいような、不思議な親密さの漂う時間だった。
それがずっと続くものじゃないことは無意識のうちにわかっていたから、余計に問いただす気になれなくて。

テーブルのうえに積みあげられた本の、表紙をなでる。
読め、と言われながらまだ一冊も読み終わっていない兵法書。
ぱらぱらとページをめくっていくと、なかに一枚の紙が挟まっていた。
白いメモ用紙のまんなかに、縦書きの先生の文字がひとこと記されている。
『らくがきするな』
メモの挟まっていたページの隅には、いつだったかに退屈しのぎで描いた口布に斜め額宛のカカシ先生の絵。

メモ用紙をつまみあげ、ひっくり返し、また元に戻して、落書きされた兵法書のページと見比べる。

「あー…先生ってほんと、先生だよな。もっと他に書くことはないのかよ、説教くせえ…」

呟いた声が不覚にも震えて、本をかかえたまま椅子に身を投げ出す。
体重を受け止めた籐の揺り椅子は、文句をいうかのようにギイギイと軋みながらゆっくりと揺れる。

テーブルを挟んだ向かい側のソファのうえに、居ない先生の姿を描く。
ひざを折って横たわる細いからだ、力の抜けた指先、癖のつよい銀の髪、ながい睫毛、すこしひらいた唇。

くすぐったいほどに軽くふれあった、しびれるようなその感触。

「クソッ、せんせーってばやっぱすげえサイテーだってばよ…」

震えたままのじぶんの声に目をぎゅうっと閉じて、籐椅子に頬を押し付ける。
キイ、キイと揺れ続ける椅子からは籐の青みある独特の香がして、胸の奥がひどく締め付けられるようだった。

(20101201)

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