パンケーキの日々


ふわりと意識が浮かび上がる途中で、水が飲みたい、とおもった。
薄く目瞼を開けると、クリーム色のカーテンの隙間から差し込む陽光が室内を明るく照らしている。
朝か。
身体を起こそうとして、腰に纏わり付くようなずくずくとしただるさに、呻く。
ベッドの隣は空っぽだ。
重い頭を抱えながら昨日の記憶をぼんやりと辿っていったところで、ふいに背筋がチリッと冷える。

「もう来んなよ」

抑揚もなく吐きだされた言葉、胸焼けするように甘いメイプルシロップの味が、生々しく蘇る。

***

言い訳するなら、それはほんとうに偶然だった。
行きつけの本屋で売り切れになっていた新刊欲しさに二駅先の大きな書店まで足を延ばし、ようやく手に入れることのできた本をすぐさま読みたくなって、どこかコーヒーショップにでも入ろうかと周囲をぐるりと見回したところで、なんだか聞き覚えのある店名を見つけた。

「めっちゃ強引に押し付けられたんだってばよ、オーボーだってばよっ」

数日前、ギャアギャアと喚いていたときはハイハイと適当に聞き流していたのだけれど、たしか大学の友達が海外実習へ行くあいだの代わりを引き受けたと言っていたバイト先の店が、こんな名前だったはずだ。
プルメリアを模った看板に、いくつもの貝殻で飾られたメニューボード。
わざわざ褪せたような色合いにペイントされた壁面には使い込んだ様相のサーフボードもディスプレイされている。
まさに南国といった雰囲気の店だ。

あいつはこんなところで働いているのだろうか。
ちょっとした好奇心で覗きこんだウィンドウの向こうを、金色の髪が過ぎった気がした。
おもわず店のドアを開けたら、カランカランというウッドチャイムの音とともにいっせいに視線を浴びた。
ドアを入ってすぐのところへ作られた狭い待合スペースに、ぎちりと女性たちが詰まっている。
気圧されて立ち尽くしたところへ、タイミングを計ったかのように明るい声がかかる。

「いらっしゃいませ一名様ですか?そこにお掛けになってお待ちください」

たぶんそんなにお待たせはしませんよ、と悪戯っぽくウインクを寄越す店員は、潮に焼けたような茶色い髪をくるくると巻きつけるようにひとつに纏めた、おおらかな体つきの女性だった。
軽快な音楽の流れる店内は意外と広そうだが、目に入るどのテーブルにも賑やかにおしゃべりに興じる女たちが居る。
いや、これじゃ随分待つだろう?
何よりここに俺みたいなのは相当の場違いだ。
申し訳ない、と心のなかで詫びつつそっと抜け出そうとおもったら、あああああっという聴きたくなかった馴染みある叫び声が耳に入る。

「ちょ、せんせーっ、なんで」
「あ、ありがとうございますー。ナルト、お会計おねがい!」

大声に被さるようにきびきびと投げかけられた女性の声に、ハイッと飛び上がるように返事をしたナルトが慌ててレジへと走り戻る。
なんだ、早々によく躾けられちゃってるんじゃないの。
ナルトが身に纏っている褪せたブルー地に白とオレンジの花が散らされたアロハシャツは、店の制服なのだろうけれどもまるでナルトのためにデザインされたかのようにしっくり似合っている。
腰に巻きつけた黒いエプロン紐に無造作に引っ掛けられたボールペンはナルトの瞳のように真っ青で、そこにもプルメリアの花型が付いている。

支払いをする女性となにごとか言葉を交わして笑顔になるナルトの姿をぼんやり遠目に眺めていたら、やがてぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろぞろぞろと女たちの集団が店を出て行った。
十二、三人は居たであろうか。
女というのはそんな集団で茶を飲むものなのだろうか。
あっけにとられている間もなく待合にいた客が順に呼ばれていき、やがて己も席に案内された。
ね、すぐだったでしょう、と親しげに笑いかけてきた先刻の女店員は、間近に見るとどうやら自分よりも幾つばかりか年上のように見えた。

これはもう逃げられそうもない。
覚悟を決めてメニューを開いたら、いくつものパンケーキの写真が載っていた。
何枚も積み重ねてクリームに覆われたパンケーキをマンゴーやラズベリーが色とりどりに飾っている。
よく見ればメニューの店名の下に『パンケーキハウス』の文字がある。
そうか、パンケーキの専門店なんてものがあるのか。
今更なことに感心していたら、先ほどよりも年若い女性店員が注文を取りに来た。
やはりよく日焼けした肌にそばかすが散っている。

「えーっと、珈琲」
「ハイ」

それから?とでもいうように首をかしげてペンと伝票を構えている店員に、珈琲だけでいいとは言えなくなる。
そもそもパンケーキ専門店に珈琲だけ飲みに来る客もいないだろう。
迷って、いちばんシンプルなパンケーキの写真をひとつ指差す。
かしこまりました、と言いながら向けられた笑顔はやはり南国らしいおおらかさに満ちている。

「なあなあ、ちょっと、せんせ、なんでここ……」
「ナルトー、これ運んでー」
「あっ、ハイーッ」

こそこそと近寄ってきたナルトが、会話をする余裕もなく再びバタバタと戻っていく。
忙しそうだ。
あちらのカウンターに飲みものを運び、向こうのテーブルを片付けて。
息つく間もないんじゃないかとおもうほどに、すごく忙しそう、では、あるのだけれど。

ガチャガチャと音を立ててナルトが食器を運ぶ。
すれ違いざまに女性店員と交わす言葉に口を尖らしてから白い歯をチラリと見せて笑う。
次から次へとオーダーを取りながらひとことふたこと客と交わす声が、軽やかに弾む。
休むことなく動き回り続けているのに、店員たちのふるまいはどこまでも明るい。
友人の代わりに働いているだけともおもえないほど店にしっくりと馴染んでいるナルトの表情は、常にもまして輝いている。
だから客の女の子たちがナルトの一挙一動を熱のこもった視線で追いかけているのなんて、きっと、当然の結果なのだろう。

「お待たせしました」

ショートパンツから健康的に日焼けしたまっすぐな足をのぞかせたボブヘアの店員が、パンケーキと珈琲を運んでくる。
フルーツもチョコレートソースもかかってはいないけれど、二段に重なったパンケーキの表面は白いクリームに覆われ、メープルシロップで木の葉の模様が描かれている。
チラリとナルトが視線を寄越すのがわかったが、こちらに足を踏みだしてくる前にキッチンカウンターのなかの声がナルトを呼び止める。
キッチン内にいるのも女性のようだ。
バタバタとカウンター内へ駆け込んでいくアロハシャツの背中を眺めながら、ザクリとナイフで切ったパンケーキを口に含む。
とろけるような生地とメープルシロップの甘みが口のなかいっぱいに広がる。

珈琲を一口飲んで、皿の上に鎮座した可愛らしいパンケーキを眺めて、途方にくれる。
あちらこちらから、チラチラと視線を投げかけられているのに気が付くが、どうしようもない。
いい年をした男が、ひとりで似合いもしない可愛らしい甘味を食べているのだ。
浮いていたって仕方がない。

居心地の悪さにちいさく溜息をついて、パンケーキを切り分ける。
ナルトはキッチンの中に入ったまま、まだ出てこない。
今のうちになんとか食べ切って、早々に退散しよう。

口いっぱいの甘さを珈琲の苦味で誤魔化しながら、女性ばかりの声がさざめく店内で異分子のように黙々とパンケーキを咀嚼する。
買ったばかりの本は、結局ページを開くことさえ出来なかった。

***

家に帰ってからも妙に疲れてグッタリとしていたら、夜になってからやってきたナルトに追い討ちをかけられた。

「先生、あの店、もう来んなよ!」

もう二度と行かないとはおもっていたけれど、一方的に『来んな』と言われるのはカチンとくる。
言い返してやろうと口を開きかけたら、そのままソファに押し倒された。
有無を言わせず口付けられ、性急に衣服を乱される。
荒っぽい手つきのくせにこちらの弱点だけはどうしようもなくなるほどの加減で触れてきて、嫌でも熱が煽られる。
苦しい、離せ、イヤだ、やめろ。
喚いているのにどんどんと力が抜けていく。
肩口に噛み付かれて身体が強張るのに、弱い先端に爪を立てられ、濡らした指が無理矢理侵入してくる。
絡まる舌に呼吸を奪われ、息苦しさに視界が滲む。
身体は火照ってくるのに、胸の底はキリキリ冷えていく。

ナルトが、怒っている。
それはきっと俺が、立ち入るべきではないところまで足を踏み入れたからだ。
身体を重ねているとはいえ、十四歳も年の差があって、しかも同性だ。
ひとに言えるわけもない関係は、唐突に始まったのと同様に、いつ終わってもおかしくはない。
いつ終わっても仕方がないと、いつだっておもっていた。
それなのに。

あんなところへのこのこと顔を出すべきではなかった。
黒いギャルソンエプロンを巻いて背筋を伸ばして立つナルトの姿は、後ろ暗いことなどなにもない、明るく開けっぴろげな南国の雰囲気そのままだった。
俺がいたから表情はすこし固かったけれど、普段だったらもっと楽しげに笑っているのだろう。
ナルト、と気楽に呼び捨てる可愛い女の子たちに囲まれている、あれが本来のナルトの場所だ。
俺なんかと一緒に暗がりへ足を踏み入れる必要なんて、本当は全然ないのに。

冷えていく感情と煽られていく身体の熱がぐるぐると渦を巻いて、意識が朦朧としてくる。
やがて、いつベッドへ移動したのかもわからないままに、夜は地平の向こうへと過ぎ去っていってしまった。

***

口のなかに、甘ったるいメープルシロップの味が蘇る。
喉が渇いた。
溜息をつきながらのろのろと起き上がり、寝室のドアを開ける。
キッチンへと足を向けたら、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。

「ナルト……?」

覗き込んだら、コンロの前に立っていたナルトが振り返る。

「あ、オハヨせんせ。そこ座って」

なんだか迫力のある口調に、おもわず言われたとおりダイニングのイスに腰をおろす。
まだ、怒っているのだろうか。

「ナルト、あの、あのさ……」

口に出しかけた台詞を言う間もなく、ずいっと目の前にマグカップが差し出される。
なみなみと注がれた珈琲の表面が黒々と揺れるのを見ながら受け取ったら、テーブルにクレープのように薄っぺらな小麦色の焼き生地が乗った皿がゴトッと置かれる。

「ナル…ト?」
「いいか先生、パンケーキが食べたかったらオレが作るから。二度と来るなよ、仕事にならねえってば!」

ぎっと睨む視線に、胸が痛む。
そんなに俺が行くのは嫌だったのか。
店で出されたようなふわふわで厚みのあるパンケーキとは正反対の、ペラペラに薄く焼けた生地が乗った皿を見つめながら、目を伏せたままでちいさく笑う。

「悪かったよ、もう行かない」
「だいたいさ、あんなとこで生クリーム食べるとかって、どうかしてるってば!しかも先生、口の端についた生クリーム、指で拭って舐めたんだぜ!コーキョーの場でなにやってんだよ!」
「……は?」

なにを言われているのかよくわからなくなって目を上げると、ギリギリと歯噛みするナルトの強い視線に捕らわれる。

「店ん中にいた女の子たち、みんな先生のこと見てただろ! あんなエロい顔でパンケーキ食べて、なんなの、オレを煽ってそんなに楽しいの?」

店長もバイトの子らも、先生がオレの恋人だってわかったとたんにオレが先生のとこ行くの妨害して揶揄うし。
そのくせ自分らは競い合って先生のところに行くしさ、なんなのイジメだよ酷過ぎるってばよオレ最後にはキッチンに軟禁されてたんだぜ先生が熱視線浴びながら生クリームとか食ってるとこ遠くから見てるだけなんてもう気が狂いそうだったってばバイトのコたちやキッチン担当のおばちゃんまで先生色っぽいってキャアキャア言うし!
一気にまくし立てるナルトの台詞に、あっけにとられる。
それってつまり。

「え、それ……ヤキモチ?」
「だあーっ、どうせオレは嫉妬深いガキだってばよ! でもしょうがねえだろ、オレは先生をオレだけのものにしておきたいの!」

真っ赤な顔をしたナルトが、ずいっと皿を指差す。

「それ、食って。ガレット!」

差し示された焼き生地とナルトの顔を見比べてから、おそるおそる皿に手を伸ばす。
縁がパリッと焼けた薄い生地は、パンケーキ屋で出されたような生クリームもシロップも掛かっていなかったけれど。

「あ、美味い」

塩気のある味は、チーズのようだ。
いくつかのハーブも混ぜ込んであるらしい。

「甘いの苦手みたいだからホットケーキよりガレットを作ってあげなさいって、キッチンのおばちゃんが教えてくれたんだってばよ。ガレットもパンケーキの一種だからって。いいか先生、それあの店のメニューには載ってないからな! あそこは甘いのしかないからな! それ食べたかったらオレが作るしかないんだからな!」

だからもう来るなよ、心臓に悪い。
顔を歪めて呟かれた言葉に、胸のそこがじくじくと擽られる。
嬉しい。
そうだ、この剥き出しの嫉妬が、俺は、嬉しい。

所詮ひとに言えない後ろ暗い間柄だからと最初からなにもかも諦めていたのに。
ナルトはそういった躊躇を一足飛びに超えたところから、なにも包み隠すことなく当たり前のようにまっすぐ俺との関係を築こうとしてくれている。
ナルトの周囲の人々までもがそれを当然のように受け入れてくれているのは、きっとナルトが振りまいている陽性の引力のせいなんじゃないだろうか。

甘味を抑えて塩気を効かせたガレットが食欲をそそる。
甘いものが苦手だと傍目から見てわかるほどの顰め面をして俺はパンケーキを食べていたのだろうかと、ちょっと情けなく恥ずかしくなりながら薄い焼き生地を口に運ぶ。

「……もう、あの店には行かないヨ。だからナルト、あともう一枚、焼いてくれる?」

ガレットを頬張ったフォークを行儀悪く咥えたままで照れを隠すように頼んでみたら、ぐううっとナルトが身悶える。

「煽るなってば、くっそ、おかわり、な!」

自棄になったように叫んだナルトが前触れもなく俺の頬にチュッと音を立てて口付けして、ドシドシドシと騒々しく足を踏み鳴らしながらキッチンのコンロの前に戻っていく。
おかわりいっちょーう、とラーメン屋のように雄叫びをあげながらフライパンに生地を流し込む姿に、呆れて笑って、熱い珈琲を啜る。

キッチンには香ばしい匂いが、尽きることなく溢れていた。

fin.(20130823)




\赤点補習/
課題に不足があったようなので、不十分であったところの補足部位を再提出いたします

※この先は性的描写を含みます。18歳以下および性的描写の苦手な方の閲覧はご遠慮ください。




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